がらむ

「人生」「生きるとは何か」といったことについて検討しています(正解かどうかはわかりませ…

がらむ

「人生」「生きるとは何か」といったことについて検討しています(正解かどうかはわかりません)。修士号まではもってるらしく、たまに東洋哲学などを用います。大体酔っぱらって書いている駄文ですので、気にしないでください。

最近の記事

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースのコピペツールを作ってみた。

私はSATの2015年版が使い慣れているので、いつもそれを使用しているのだが、コピペの際には、「T0001_.01.0001a05:」とかいうカタログ番号や「画像」という文字列が含まれていて、非常に不便に感じていた。 論文執筆の際には、いちいちこれらを除去しないといけない…。 もしかすると、設定で排除する方法とかがあるのかも知れないが、SATの細かい機能もよくわからないので、ブラウザプラグインでなんとかしてみることにした。はっきりいって学生時代に作っておけばよかった…。

    • 部派仏教と大乗経典の「愛」を比較する

      1.はじめに 1カ月程前だろうか。 パーリ仏典を用いる某上座部の信徒を部屋主とする某チャットルームに、「『理趣経』を知りたい」という参加者が現れたため、私はチャートグラフを用いて解説することとなった。 ところが、部屋主である某上座部の信徒はこの解説を聞いて、「『理趣経』はレベルが低い、カーマ経だ」などと感想を述べていた。 (※なお『理趣経』を解説していたところ、部屋から追い出されたため、私はもういません。) 私はパーリ仏典を用いる上座部の教学のことをしらないが、どうも信徒

      • 仏典から考える「時間の秩序」

        1.時間とは何か問題の前提 ここ最近、老化とともに、「時間の計算ができていない」と指摘されることが多くなった。どうも、「12時間」「24時間」というのは計算としてヤヤコシイようである。 例えば「午前10時から19時間後」という計算をするとき、 一つの方法として、24時間に計算しなおすために、午前であれば+0、午後であれば+12時間をしたのち、「10時+19時=29時」、24時を超える場合は、-24をするという計算になる。 もう一つの考え方としては、12時間計測として、

        • 「如是我聞」と寄せ集めの経典たち

          大乗仏典には必ず定型句として「如是我聞」(このように私、阿難は聞きました)から始まっている。意味としては、対告者を示す「仏告阿難」(仏は阿難に告げました)と同様なのであるが、この違いは一体なんなのだろうか。 「如是我聞」にこだわったことは何回かあります。まず大学1年のときには「如是我聞」と「仏告阿難」は何が違うんだと言い、周りの大人から失笑気味に「やべえやつ」と思われました。この時に答えを教えてもらっていたら、その4文字に含まれる重要性に気付いていなかったかもしれません。

        SAT大正新脩大藏經テキストデータベースのコピペツールを作ってみた。

          『カーマ・スートラ』から学ぶ、人から好かれる技法・嫌われる技法

          古代インドの人生観で大切なのは、「利」(稼ぐこと)と「愛」と「法」(解脱を目指すこと)だそうで、アーシュラマ(年齢区分)によって、それぞれ目指すべきことは異なるそうである。 このうち「愛」というのは、人生の一大事にされてきたテーマで、たとえば釈尊が五支縁起の中で、渇愛(カーマ)から生老病死へと繋がっていることを示した一方、『カーマ・スートラ』と呼ばれるヒンドゥの恋愛指南書では、渇愛(カーマ)をテーマに人間の心理を細かく分析している。 『カーマ・スートラ』では、全体的に、愛

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