走り書き「君たちはどう生きるか」

以下、映画「君たちはどう生きるか」のネタバレあり。


「君たちはどう生きるか」を観てきた。同作は内容についての事前情報がほとんど出なく、吉野源三郎の同名小説との関係も噂されたが、実際のところはやはり不明であった。
吉野の「君たちはどう生きるか」を事前に読もうかともちらりとは思ったが、結局そんか余裕もなく、書店で平積みにされているのを横目にみた程度だった。吉野源三郎という人物については、児童文学者であり戦後は岩波書店『世界』編集長。戦後、平和問題談話会の呼びかけ人であるものの、どちらかというと左翼進歩的な平和主義者という印象がかろうじてあるに過ぎない。その意味では、おそらく終戦間近の1945年を舞台にした映画で主人公の少年が吉野の『君たちはどう生きるか』を読んだクダリでは、少年が軍国主義への軽い反発から左翼思想へ目覚める萌芽の過程を描いた部分があるものかと疑った。あるいはその意味もあったのかもしれないが、どちらかというと幾何学的な形状の積み木を不安定に積み上げ少年の生き方を問うクライマックスの描写からは、様々な戦後日本(あるいは世界)への可能性を包括的に委ねたように思われる。映画全体を通して大きな意味で提示されたテーマは、一つの反戦平和姿勢への現代における向き合い方があったように思われる。
上記はあくまでも重層的に絡められたテーマの一つ、それも戦争という時代背景に込められた大枠に過ぎないだろう。そのなかでもう一つ顕著な点は、主人公の少年の、無垢であり反骨的な、ゆえにセンシティブな世代を通じた時代の表象である。主人公は戦争がはじまった一年目(太平洋戦争開戦から数えて1942年と思われる)に病気の母親を火事で失った。開戦から4年目(1944年)に父親と共に田舎に疎開し、母親の生家で暮らすことになる。ここに現れるのは少年を取り巻く様々な環境と少年の心理の間にある溝である。
主人公の父親は母親の妹ナツコと恋仲になり、ナツコのお腹には新たな生命が芽生えている。つまり主人公の腹違いの弟か妹になる。疎開先の家(母親およびナツコの生家)はみたところ資産家で、複数のお手伝いさんの老婆を抱え、近所に軍需工場を構えるほどである。主人公の父親はその工場の管理を務める。つまり、主人公は戦時における封建主義的な家庭に生まれ、戦争協力の先陣にある軍国主義的な色合いの強い家庭であった。
一方、まだ子供の主人公は実の母親を火事で失った傷を抱えていた。主人公は緊張の面持ちで田舎の家を案内されたが、自室に入り疲れて眠るとたちまち火事の情景を夢に見て涙を流す。深夜にもそれで眠られず起きて廊下の階段に座り込む。すると仕事を終えて帰宅し、ナツコと言葉を交わす父親を密かに目の当たりにする。明らかに男女のそれである関係性を目の当たりにした主人公はコッソリと自室に帰る。
転校先の学校では都会から来た余所者として扱われ、周囲に馴染めないわけだが、これらの事情が主人公と周囲を取り巻く溝として、一種の孤独を演出しているようである。もう一つ付け加えれば、最初田舎を訪れ三輪車に乗った際、ナツコは主人公の手を取り自分の腹にあて妊娠を告げるが、このことは主人公にナツコと父親との恋人関係を確信ならしめ、かつ主人公に初めて「性的」なものを意識させる、すなわち主人公の最も不安定な年頃というものが強調されるものだったろう。
ナツコは実の姉の実子である主人公の新たな母親になろうとするが、ナツコに対する描写をみる限り、主人公はその事実に少なからぬ抵抗を抱いているようである。しかし、主人公はセツコを拒絶しているわけではなく、むしろ受け入れたい衝動を心の正直なところで持っていることもわかる。それは、「塔」を通じて別世界に行った主人公が若い「キリコ」に「母親か」と問われ、「お父さんの好きな人」と訂正する場面に逆説的に現れる。自身の母親であることを否定せず、しかし父親の恋人(=婚約者)である事実のみは認めるという矛盾した事実は、主人公の実の母親に対するある種の後ろめたさ、あるいは心のどこかで母親は生きているかもしれない(遺体を確認したわけではない)という、現実を認めまいとする態度だろう。ナツコを母親と認めることは、自身の心の中にいる母の死を事実上認めることにも繋がる。
主人公は軍国主義的かつ封建的な家庭の思想、新たな母へのやむなき反発、余所者としての学校での所在なさといった孤独のなかにいた。
そうして、主人公は屋敷近くにある謎の「塔」を媒介に自身の内面の矛盾を整理する作業に入る。「塔」はいかにも様々ないわくある思わしげな建物であるが、その存在自体は実に単純で、主人公に妄想たらしめるだけの神秘性が仄めかされていればいい、ただそれだけの存在に思われる。象徴的な青鷺も同様であるが、別世界で「キリコ」が「青鷺は嘘をつかない、それは嘘か真か」という問いをするのは、そうした現実と夢想との境を曖昧にする役割もあったのではないか。(ついでにいえば、「嘘か真か」にはもう一つ、戦後の未来に対する向き合い方には嘘も真実もない、という大きなテーマに対する問いかけも兼ねていたのかもしれない)
映画「君たちはどう生きるか」は、軍国主義に従順な封建的な資産家の家に生まれ、性に目覚める思春期に差し掛かる少年が、亡くなった母親に代わる新しい母親を受け入れようとする過程をミクロな視点で捉え、一方でその敏感さをもって終戦と戦後、すなわち未来を背負う世代性を示していたように思えた。
不安定な積み木を積み重ねる大叔父、「帝国」と称するセキセイインコの将軍、クライマックスの「石」の崩壊。それらが戦争と戦後のイメージを(端的に)表出していた(このあたりについては、書き疲れたので省略、やる気が出たら続きを書きたい)。しかし考えさせられたのは、作中、実の母親が主人公に吉野源三郎にかけて戦後一時的に流行したような平和思想を提案した(吉野源三郎を読んでないから見当違いかもしれないけど)ものの、物語の根幹ではついぞ明確な指示を主人公に提案することなく、不安定な積み木でもって判断を委ねる点である。戦後価値が崩壊し、多様な選択への脱却点にある現代への、一つの態度を表しているように思われた。

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