学生のころ読んだ本の話
「先生おすすめの本ありますか?」
たまに学生からそう聞かれることがある。大学では中国語の授業と、中国語の通訳の授業と、日中関係の授業を持っているけど、そういうことを聞いているのではない。単純に彼ら/彼女らは面白い本はありますか?勉強とかそういうんではなくて、と聞いている。もっと言えば(教えてもらっても読むとは限りませんけど)と言っている。別にいいんだけれど。
よかったな、と思った本はいっぱいある。けれど紹介してください、と言われるとこれといって思い浮かばない。僕はいつも小説なんかを読み終わって感動すると、ぐだぐだと内容を反芻しては、あれはこうだったな、こういう話だったな、とひしめき合う蟹のような会議を頭の中で始める。現実では決して出会うことのない登場人物を身近に感じながら、でも現実では決して出会うことのないことに虚しさを覚えたりする。だから僕は、出会わないこと、結実しないことが最上の愛なのかもなぁ、などと思ったりしたこともある、小説的に。そしてその虚しさに悦に入ったりする、気持ち悪い性分だ。だから僕は、読んだ本や映画の感想を誰かと語ったことがほとんどない。いつか付き合った彼女やなんかとも、語ったことがほとんどない。
感想を言い合うか、もっと言えば愛を語り合うかどうかは別にして、いちいちそんなに感動しているのだったら何か紹介できるものはあるだろうと思うかもしれない。けれど僕は、感動している自分のことすら疑ってしまう性分だ。もしかしたら読み切った達成感を小説の感想に投影させているだけかもしれない、とか。ほかにも上述の蟹のような会議が楽しいだけで、作品自体はありきたりなものだったのかも、とか考えてしまう。そして実際、よかった!と思った作品を紹介して、「読みました!よかったです!」と後日言ってくる学生が今のところ皆無なのだ。むしろそういう反応のなさが、いま言ったばかりの自分の感動に対する疑いに繋がっている節すらある。
だから僕は、「おすすめの本ありますか?」と聞かれると、いつも10年も前に読んで記憶も色褪せた一冊の小説を口に出してみる(そして誰も読んでくれない)。ほかにも僕の「紹介したい本」棚に収めた本はいっぱいあるし、学生のころ読んだ本だからいま読み直したらどんな感想を持つのかわからない。けれどいつもその本が真っ先に浮かぶのは、おそらく僕自身も学生だったことと、当時、小説ってこういうものに挑むことなのかも、と思ったことがすごく新鮮に感じられたからだ。
その作品はある青年が死者の噂を見聞きしては、その現場を訪れて悼む旅をするというものだった。のちに映画や舞台にもなっていた。なぜ青年がそんな旅をしていたかというと、青年はある時大好きだった兄を亡くし悲しみに暮れたが、その悲しみがいつしか薄れいくことに、罪悪感といおうか、違和感といおうか、”慣れ”とも”忘却”とも似て非なる、時と現実への馴染みに対する、人生への激しい掻痒のようなものを覚えたことがきっかけだった。
僕は小さいころ父親に「登場人物を死なせて感動させるような作品は卑怯だ。殺さずに泣かせてみろってんだ」と言われ、以来人が死ぬ映画や小説や漫画やアニメには斜に構える癖がついていた。でもこの作品ではそういう感動とは別の次元の、死者と自身との関係ではない、あくまで主人公たった一人の心の矛盾が描かれているような気がした。そう思ったのは、高齢の親族など誰であれ、身近な人を亡くした悲しみに馴染む自分に違和感を感じた経験が自分にもあったからだ。
もやもやしているのが人間だ。と僕は時々自分にいい聞かせる(受け売りだが)。不満と満足はシーソーのようなものだとも。不満を解消すれば、別の不満が生まれる。人間は満足した時にこそ悩む、とも。でもそれを表現することは難しい。まして小説家でも画家でもない自分にとっては。でもそれを描き出す人がいる、ということに気づいたことが嬉しかった。その感動を学生に伝えたかったのだ。
前述のように、この作品をいま読んだらどういう感想を持つかわからない。長編だったので読み直そうとも思わない。ただ自分自身が学生だったころの感動を伝えたくて、学生にこの本をおすすめすることがある。けど、ほとんどの学生はその本の表紙の絵のような、人形のような顔をして、風のように僕の言葉を受け流す。たとえ読んだとしても、通りいっぺんの感想しか言わないかもしれない。そしてそもそも、やはり「読みましたよ!」とすらいまだに一度も言ってもらえていない。
(ハイボール3杯濃いめを飲みながら)
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