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1997上海奇想天外物語

まえがき

その日も上海の空はくすんでいた。
この物語は全て実話です。
就職氷河期世代である負け組の
私が1997年に上海へ渡りました。
その上海で体験した奇想天外な日々の物語をお送りします。
長編なので途中まで読んだら
目次を活用して読み進めて行ってください。


1994年 社会人スタート

負け組らしい社会人スタート

負け組

私は経済成長真っただ中の
一般会社員の家庭で生まれた。
成長するにつれバブル経済に突入し、
学生時代はバブル経済真っ只中で
父は中小企業の役員だった。
しかし私は社会人のスタートとも言える
就職活動につまづくことになる。
私はいわゆる就職氷河期世代であり
第二次ベビーブーム世代でもある。
日本に子供がたくさんいた時代、
学力競争に対応できずに
底辺の大学にすら行けなかった。
学歴社会での負け組である。
仕方なく私は専門学校に行くことにした。
ちなみに当時は今と違って
大学はどこを受けても
倍率4倍以上でかなり狭き門だった。
私はいわゆるアホなので
学生時代に唯一好きだった
美術に関わるデザインの学校へ
2年間行かせてもらった。

悲惨な就職活動

専門学校に入学時点で
日本はバブル全盛期だった
しかしたった1年後
そろそろ就職活動をするかという頃に
バブル経済がはじけた。
今の人たちには
あまり想像ができないかもしれないが
一夜にして日本中に冬が到来したような
寒い、極寒の経済状況になったのだった。
学校には就職活動のための
人材募集掲示板がある。
1年前はその掲示板に
求人票が所狭しとびっしり貼られていた。
しかしバブルが弾けた後に
デザイン事務所の求人票は
見る影もなかった。
学歴社会ごときに
適応できなかった私は
就職難にも対応できずに
「就職浪人」となってしまった。

先見の明

不況に陥ったら
世間はどうなるのか。
まず最初に切り捨てられるのが娯楽だ。
お金がないから
まず遊びに行かなくなる。
そして無駄なものは買わずに
外食を控えて生活費を切り詰める。
「衣食住」だけに出費を絞るしかなくなるのだ。
そんな状況で新たな飲食店、
アパレル店舗などは出店をしなくなる。
私は店舗のインテリアデザインを学んでいた。
真っ先に就職難となった。
つい最近まであったデザイン事務所が
バタバタと倒産してく
悲惨な状況だった。
一方、あの時に住宅の
インテリアデザインを学び
努力していた人だけが就職した。
住宅は「衣食住」の1つだからだ。
同じインテリアデザインでも別世界だった。
当時住宅のデザインをチョイスしたあの人たちは
本当に堅実で賢かったと思う。
名も無い大学に行っている人達が
就職できない時期に
専門知識を学んだ彼らは
未曾有の経済不況でも見事に就職した。

フリーター

私は就職浪人という
「フリーター」の身となった。
ちなみにフリーターというのは
バブル期に造られた言葉である。
フリーターを題材にした映画もあり
正社員にならなくても
稼げるスタイルとして認知されていた。
まず肉体労働はやりたくない
立ち仕事も嫌だ。
しかし時はバブル崩壊直後
みんながやりたくない
仕事の募集がほとんど。
その中から私は事務仕事で
まだ少しバブル経済の
名残を感じるような
残業や休日出勤の多そうな業界を
狙って応募し手取りで
月25万円くらい稼いだ。
これが私の初任給みたいなもの。
バブル期に同じ仕事をしたら
40万円以上は軽く稼げたと思う。
アルバイトで40万円?
と思うのかもしれないが
フリーターが流行の最先端で
稼げる時期が一瞬だけあり
バブル経済ではそれでも末端であった。

フリータースパイラル

しかしあまり金に執着がない私は
25万円に満足していた。
世の中がバブル崩壊後の
悲惨な給料に嘆く中
毎日の労働後にもらえた給料に満足だった。
とは言えバブルは終わってしまい
所詮は不安定なアルバイトの身なので
就職先を探さないといけない。
当然だが正社員募集などほとんど無い。
バブル崩壊とは実に恐ろしい状態で
危なくなったらすぐ解雇できる
アルバイト募集はあっても
福利厚生費が嵩む正社員の募集が
ほとんどなかったのだ。
選り好みして就職先を選ぶからではなく
学歴も社会経験も無い人間に
開かれる門などなかった。
楽観的、というか
やる気のない私でも絶望感を味わった。
1年少し前まで誰でもできた
希望職種への就職が
夢より遠いところに行ってしまっていた。
バブルが弾けて
就職ができなかった私
履歴書を送っては
企業に無視される日々が続いた。
気づけば私は日本の状況が嫌いになっていた。
ただの逆恨みで嫌いになっていくのだった。

なんでも手間がかかった時代

今の就職活動は、
エントリーシートをメールで送ったり
応募フォームからエントリーし
返信を待つスタイルかと思うが
1994年当時は全てがアナログだった。
手書きの履歴書を書いては郵送する。
ちなみに履歴書に貼る写真は
写真館で撮影した白黒写真だ。
履歴書を何枚も用意すると
その分費用がかかる。
なのに書類選考で落ちたら
何の連絡もない。
企業によるただの無視だ。
買い手市場だから企業側は
殿様感覚なのだ。
こちらは就職してお金を稼ぐために
諸経費でお金がどんどん無くなっていく。
私の日本への逆恨みは増していく。
あくまでも逆恨みである。
思い返すと当時は
何事にも手間と費用がかかった。
そりゃ自然に経済も回るし
個人事業主も多いわけだ。
あと就職エージェントなるものも
ほとんどなかったので
ピンハネもなかったのかもしれない。

諦めるしかない?

デザイナーになりたいが
絶望しかなかったある日
私はいつもの美容院に散髪へ行った。
美容師さんと会話していると
地元に新しい娯楽施設ができるそうで
そこで社員を募集しているという。
それはカラオケ店だった。
美容師さんがオーナーと知り合いらしく
面接可能か聞いてくれる
というのでお願いする事にした。
数日後に新聞広告を見ていると
同じテナントにボウリング場もできる
と記載されていて
そこでも社員を募集していた。
よく読んでいるとかなり大きな
グループ企業の末端企業だったので
そちらにエントリーしてみる事にした。
美容師さんには謝罪して
カラオケの話はお断りさせてもらい
ボウリング場の面接を受けたのだった。
それと同時にデザイナーへの道は諦めた。

1995年 就職

妥協はしたがようやくできた就職

採用

正直なところ期待してはいなかったが
なんとボウリング場運営の会社に採用された。
超不況で応募殺到のはずなのに!
なぜ自分が採用されたのかよく分からなかったが
バブル崩壊直後に仕事をゲットできたし
とにかく親も喜んでくれた。
接客業でのバイト経験もない私が
立ち仕事で客にペコペコしてお金をもらう。
苦労なく育ち、甘ったれた自分に
続けられるのか分からなかったが
とにかく本気で仕事に取り組んで
他人が見たら驚くようなスピードで
出世してやろうと思った。
勉強も碌にせず、
苦労する事なく成長した若者を
バブル経済の崩壊は
若干ハングリーにさせたのだった。

正社員の仕事

オープン前のボウリング場の
オープニングスタッフとなった私
何もかもが新鮮で
数十人のアルバイトに研修をしたり
ボウリングマシンのトラブル対応をしたり
レーンのコンディション作りをしてみたり。
毎日勉強だった。
デザイナーになりたかった私が
少し前まで全く想像もしていなかった仕事。
デザイナーになりたかったが
妥協して入社した会社。
しかし毎日が新鮮だったし必死だった。
ボウリング場の社員の職務は
わりとたくさんあって
そんな感傷に浸る暇もなく
毎日目まぐるしかった。
ざっと上げるとこんな感じで
結構やることは多い。

アルバイト教育、地元企業へのPR活動、マシントラブル対応、レーンコンディション作り、イベント企画と実施、センター内の広告物作成、プロショップ、フロント、フロア、ゲーム機管理、などなど

アルバイト教育
昔なので今からしたら
パワハラまみれだった。
マシントラブル対応
ピンが立たなくなったり、
ボールが返ってこなくなる軽度のものから、
難解なものまであり、
トラブルが起きたら機械裏に走っていき、
大きなマシンに乗っかって
トラブル箇所を復旧させる。
レーンコンディション作り
レーンに引くオイル量を調整する仕事で、
ボウリングセンターによって
コンディションは違うし、
なんだったらその日の担当によっても変わる。
マニアックな人はボールを曲げたがるので
オイルを少なく短く引いてあげると喜ぶ。
プロショップ
ボールや用具を販売する仕事。
ボールを売るということは
客の手にフィットする穴を
ドリルで開けるという事になる。
専用ドリルを使って開けるだけだが、
これもマニアックな人向けに
好みを聞いて調整してあげる事になる。
失敗できないのでかなり緊張する業務だった。
イベント企画
ポイントカードの仕組みを作ったり、
ボウリングコンペを企画したり、
費用対効果を計算して予算取りをしたり、
それを持って企業に飛び込み営業をしたり
社会人一年目でなかなか良い経験ができた。
ちなみに当時は
アポイントメント無しで企業の受付に行き、
適当に行きたい部署を言えば
通してくれた時代で、
飛び込み営業が楽にできた。
しばらくしたら大手企業に行くと
「アポは?」と聞かれるようになったので
当時は時代の変わり目だったようだ。
今や企業への飛び込み営業なんて
言葉は無くなったと思うが
飛び込んだ先で
話を聞いてくれそうな人を探すのが
商談成功の最初のポイントだった。

こんな感じで業務の種類は多いが
イベント企画は毎日するわけではないし
ボールを買いに来る人も
そんなに多くはなかった。
よって毎日の仕事は
フロント業務をやりながら
アルバイトに指示を出して
センターを回す事がメイン。
もちろんガラの悪い客もいるし
アルバイトが客を怒らせたら
謝るのも社員の仕事だ。
責任者呼んでこい!
となったら登場する役割だった。
ちゃんと嫌な仕事だった。

少しだけデザイン

客が減る時間帯は
場内に貼るポスターを印刷して
ポスカで色塗りだ。
1994年にフルカラー印刷は
業者の仕事だったので、
ここで唯一デザイン学校を出た腕が
ほんの少し発揮できた。
ちなみに今みたいに
1人1台パソコンが支給されることはない
当時はワープロでなんでも作っていた。
Windows95が発売される少し前のこと
パソコンを1台買うのに
40万円くらい必要な時代だった。
デザインというよりは
お絵描き気分だったな。

上司

そのボウリング場には
5つ年上の上司がいた。
彼は判断力があり仕事ができる人だった。
私はその人に子分みたいにくっついて
仕事を教えてもらっていた。
定時時間内でやるべきことは終わらせて
残業時間をその上司と話す時間に当てた。
残業代がほとんど出ない会社で
毎日のように残業をして
上司と話すことでその考え方を学んだ。
社会人一年生の私にとっては
仕事とは何かを学ぶ大切な時間だった。
上司も熱心に色々と教えてくれて
仕事の糧となっていた。

1996年 人生の転機

降って湧いた話に心が躍る

上司の異動

そんな新人社員だった私が
ボウリング場で働きだして
2年が経過しようとしていた。
ある日、お世話になっている上司が
別のボウリングセンターへ異動した。
代わりに異動してきた先輩は
ちょっと面倒で私とは
ソリが合わないタイプだった。
センターの支配人は
私のことをあまり評価していないし
ちょっと仕事にも飽きてきたし
何か良い仕事があったら
転職したいとは思っていたが
そこはバブル崩壊後の1996年の日本。
サービス業で2年しか働いていない
経済状況も身の程も知らない新人に
転職のチャンスなどなかった。
そのくせ、
自分が世間では全然使えないレベルだと
まだ気付いていないし
なんだったら自分は
仕事が出来るタイプだと勘違いしていた。

電話

そんな事を思いながら
しばらく経ったある日
事務所で楽しく
ポスターに色塗りをしていた時
異動していった元上司から電話が鳴った。
ちなみに携帯電話が普及し始めたのがこの頃で、
初期の携帯電話は
画面に電話番号しか表示されず
電話番号を覚えていないと
誰からの電話かわからない時代
鳴ってすぐ元上司だと分かった。
元上司の話の内容は中国の上海に
ボウリング場をオープンする会社があり
一緒に現地でオープンを
手伝ってくれる人を探しているという。
そこで私が浮かんだとの事。
さて、なぜ中国の話で私の名が出るのか?
理由はこうである。
先輩の金魚の糞として働いていた
新入社員の頃、残業中に先輩と事務所で
よく仕事について話していた。
当時私は仕事で中国か香港に行きたいと夢を語っていた。
(当時香港は中国返還前でイギリス領)
今の会社で中国に進出する場合は
立候補したいなどなど。
実際にその会社は海外進出をしていて
あながち無い話ではなかった。
私が何回も言うので
それを覚えていてくれたようで
たまたま異動先で仕事で知り合った人に
中国に現地駐在で行ける人を
探していると言われた元上司が
私をその会社に推薦していいかと言うことだった。

夢が叶うかもしれない

正直、ただの夢だと思っていたし
まぁそんなことがあればいいな
くらいの願望だった。
しかし現実にそんな話が出てきたのだ。
私は震えた。
電話で話しながら
ポスターに色塗りをするために
持っていたポスカの手が止まった。
いったん「考えさせてください。」
と言って電話を切った私。 
思いもしなかった転職という形での中国進出。
辞めて良いものか
3日間考えたがやはり行きたい。
だったら後悔しないように
チャレンジしようと心に決めた。
まだ23歳だった。
例えば新卒で大手企業に所属していれば
そのまま定年まで働くのかもしれないし、
その中で中国駐在に手を挙げることもあるだろう。
私にはその道はなかったし、
1つの企業で職務を全うするよりは
やりたいことを
目いっぱいやりたいと思っていた。
若いからやり直しはいくらでも効く。
そして当時の私はやはり日本が嫌いだった。
そして自分は出来る人間だと勘違いしている
そのためおかしな自信もあった。
3日後、元上司に電話をして
「上海に行きたいので紹介してください。」
とお願いした。
いったん面接という形で
転職先の専務と会うことになった。
それからトントン拍子で話が進んで
私の転職が決まったのだった。

1991年 音楽

私が中国を好きになるきっかけの話

きっかけ

私は変わり者である
人が好きになるものにはあまり興味がわかない。
音楽は特にそうで流行りの音楽は
ほとんど聞かなかった。
でも音楽が好きではあった。
ボウリング場に就職する
数年前の1991年のこと
デザイン学校に通っていた私は
あるバンドのアルバムに出会った。
当時、CDショップに行って
ジャケ買いするのが好きで
おもにアメリカのハードロックを
物色しにCDショップ行き、
事前情報のないアルバムを
購入してよく聴いていた。
今だと音楽は配信だし
CDなんてもう買わないが、
当時は全く聴いたこともない
アーティストのアルバムを
ジャケットだけ見て買うという文化があった。
めちゃめちゃハードなジャケットなのに
バラードが多めだったり、
少女が立っているモノクロ写真なのに
聴いたらめちゃくちゃパンクだったり、
ジャケ買いもそれなりに楽しめたものだ。
良い時代だったと思うが
今やジャケットすら無い。

BEYOND

ある日訪れたCDショップの棚に
「世界のロック」というジャンルがあった。
その中に香港のBEYONDというバンドの
「真的見証」というCDアルバムがあり、
なんとなくジャケ買いをしたのだった。

BEYOND「真的見証」

家に帰り、アルバム開封!
1曲目STARTだ。
おや?
かっこいいイントロだぞ!
なかなかのハードロックだなこれは。
歌が始まった、
何を言っているか流石にわからん。
当時はよくわかっていなかったが
それは広東語の歌詞だった。
ヴォーカルの歌がうまい。
声が伸びて聞き応えがある。
ギターの音が歪んでいて
すごく好みだ。
異文化のロックに出会って
私は心が痺れた。
2曲目、ギターのカッティングが良い感じ。
あれ?ヴォーカルが変わった???
さっきの人歌ってないな。
後日わかったがメンバーの中で
リードヴォーカルが
ちょいちょい交代するらしい。
おもろ!!
自由やなぁ。
私はすっかりこのバンドにハマった。
ちなみにこのアルバム、
今買うと4万円くらいするらしい。

BEYONDに夢中

そこからの私は
BEYONDのCDを探す日々。
そもそも情報が無いから
顔もよくわからないような状態で
BEYONDの文字だけを探して
CDショップを渡り歩く。
Windowsパソコンがこの世に登場する前、
香港の情報もなければ
ネットショップもないし、
もちろん海外の通販も
発達していないから
足で稼ぐしかないのだ。
ベテラン捜査員くらい
靴をすり減らして
捜索するしかないのだ。
BEYONDのCDを
数枚ゲットしたある日、
まだ見ぬアルバムが
全く見つからなくなった。
どれだけ探しても全然ない。
疲れ果てた捜査員は後ほど知るのだが、
私は当時日本で流通していたBEYONDのアルバムを
全て入手してしまっていたようだ。
そりゃ探しても見つからないわな。

中国本土

さて、探しても探しても見つからない
BEYONDの捜索に勤しむ中で
「黒豹楽隊」というバンドの
「黒豹」というアルバムを発見した。
黒豹の絵のダサいジャケット。
ジャケ買い大好きな私
ちょっと興味が湧いてしまい購入した。

黒豹楽隊「黒豹」

香港のバンドBEYONDのCDを
探して探してなぜか手にした
黒豹のCDを聴いてみる。
さて、
1曲目STARTだ。
歪んだギターイントロ、
ハードロックだ。
CDなのに音が悪くて
ちょっと古臭い曲調だな。
中国は録音機材が悪いということか。
「いよぉ〜ぉおお〜」
とコーラスから始まる妙な雰囲気。
これがチャイニーズロックなのかな?
歌が始まった。
あれれ?
普段聴いている
香港のBEYONDとは言葉が全然違う。
北京と香港、
同じ中国語圏だと思っていたが
言語が違うのか?
それにしてもとにかくパワフルだ!
間違いなく日本人からは
出てこない圧倒的パワーだ。
例えば、
駆け出しのインディーズバンドを
発見したような
そんな瞬間の気分だった。

興味は深まる

この黒豹から
私の中国本土への興味が深まった。
それまでは香港のことが
気になって仕方がなかったが、
当時は別の国だった
中国大陸のことも気になり出したのだ。
そして香港の中国返還は
1991年から6年後の
1997年だと知る。
香港を入り口にして
私の中国の情報収集が始まる。
まず中国にはたくさんの言語があり
香港で使われている広東語と北京語は
外国語並みに言葉と発音が違うと知る。
私の世代はジャッキー・チェンの映画ブームで
広東語に少し馴染んでいた。
でもニーハオとかシェーシェーみたいな
北京語での挨拶は聞いた事があって、
それがジャッキーのいる香港と
別の言葉とは認識していなかった。
探しに探して手に入れた
チャイニーズロックの特集を雑誌で読む。
北京にも黒豹楽隊をはじめ、
いくつかのバンドがあるようだ。
イギリス領である香港の方が
エンタメはかなり発展していて
日本に近い感覚らしいが
中国では全く違った。
そもそもエンタメが
規制されていた共産圏の中国。
資本主義の香港とは全く異世界だった。

あまりにも別の世界

では当時の中国は
どういう状況だったか。
これから書く話は
1991年当時の中国の
風俗事情である。
中国共産党支配下の中国で
共産党が認めた音楽以外は
アングラとして扱われ
摘発の対象となっていた。
ロックバンドのアルバムは
主にテープで流通していて
屋台や闇市で流通していた。
そして公安警察に見つかると
没収されてしまうのだった。
私が聞いたあのパワー溢れる音は
反骨のパワーかもしれない。
日本で何も考えずに
当たり前に聞ける音楽が
隣の国では摘発対象という事実に
さらに興味が湧いた。
そして公安が没収したテープを
公安がまた闇市に
横流しをして儲ける。
なんて悪い奴らだ!
興味が尽きない。
違う書物を手にしてみる。
また新たな興味深い話が
どんどん出てくる。
中国では公式なキャバクラや
風俗店は全く存在しない。
公式ではないから
裏でたくさんの盛場があるらしい。
例えばキャバクラはご法度だから
ホステスが客の横に座るのはNGだ。
公安に現場へ踏み込まれたらアウト。
のはずだが、
摘発されることは
特別な場合を除いてあまりない。
賄賂やらコネやらで
なんとでもなるらしい。
やはり悪い奴らだ!

行ってみたい

本を読んだだけでは
詳しい事情はあまりわからなかったが
何やら本音と建前みたいな世界
であるのはわかる。
非常に興味が湧いてしまう。
今みたいにネットで
情報収集できたら
ひょっとしたら
それで満足していたのかもしれない。
知りたいけど情報が少ないから
さらに欲してしまうのだ。
日本に嫌気がさしている私は
当時の中国の放つアングラな
ニオイにどんどん惹かれていった。
しかしその頃に中国へ
渡航する者はほとんどいなかった。
ビザの取得方法は?
渡航費はどれくらい?
1991年の私はただの学生で
そんな具体的な情報収集をするでもなく
中国はなんとなく
興味深い近くて遠い国だった。

時は流れ

それから3年後に
ボウリング場に就職をし、
先述した中国駐在の話が舞い込む。
ほんの少しの興味が
自分の人生に影響する。
人生を振り返ると、
いくつになっても
興味のあることを深く知るのは
発見だらけで刺激的なものだ。
特に若いうちは新鮮さも相まって
異国の情報を得ることは刺激が強かった。
どんな些細なことでも
なんでも経験して
その意味を知ることは後の宝となる。
ただ音楽が好きで聴いていただけの若者が
本を買って国事情を知り
その数年後に海外に駐在することになる。
人生はどうなるかわからないものだ。

1996年 転職

転職をしてすぐにうまくいくわけでもなく

前途多難

勤めていたボウリング場を退職し、
上海にボウリング場をオープンする予定の
小さな会社へ転職した私。
転職後すぐに上海へ
行けるかと思っていたら
そうはうまくいかなかった。
理由はボウリング場の
建設が遅れているということで、
すぐに現地に行く必要はないとなってしまった。
というわけで仕方なく転職先の
小さな会社が運営していた
カラオケルームの仕事を手伝う事になった。

カラオケ運営会社

私の転職先は家族経営だった。
お父さんが社長で長男が専務、
店長が次男、主任が三男という構成で
次男と三男が店を切り盛りしていた。
わがまま長男がやりたい放題で
弟たちをこき使うため
家族内の人間関係が微妙だった。
わがまま長男は基本的に働かないので
カラオケ店の現場の実務は
次男と三男にやらせ、
事務所で本を読んだり
部下と将棋を指したり
気ままにどこかに遊びに出かけるような人。
そしてミーティングといっては
疲れた人たちを
長時間拘束してあれこれ口出しをする。
そのため、兄弟達からは
疎ましく思われていた。
もちらん全社員から
煙たがられる存在だった。
超若手で経験の浅かった私は
そんなこともよくわからずに
偉い人としか思わずに接していた。
悲しいことに上海に行き
現場の責任者をするのは
そのわがまま長男だ。
私のボスなのだった。

上司の接待

当時41歳のわがまま長男は
自分のことをいっぱしの経営者
だと勘違いしていて、
営業中のカラオケ店の
事務所へ部下を呼び
将棋を何時間も指しては
接待将棋をさせていた。
その部下のセリフは毎回
「専務は将棋強いですねぇ!」だった。
しかしわがまま長男はそれを接待で
忖度だと気付かずにいて
自分は頭が良いから将棋が強い
と勘違いしていたのだった。
要するにアホなのだ。
ここで彼の呼び名は
アホアホマンとする。
ある日の勤務中、
アホアホマンからビリヤードに誘われた私。
接待ビリヤードなので
もちろん負けてあげた。
そして勝利したアホアホマンは上機嫌だった。
私も他の人を真似て決め台詞を
「専務はビリヤード強いっすねぇ!」
もちろんクリティカルヒットした。
上機嫌なアホアホマンは
ビリヤードについて
いろいろ私に語っていた。
全部知っている内容だった。
超若手の私でも
こんなちょろい人間がいるのかと驚いたが、
これも人生経験。
人付き合いや忖度というものを学んだのだった。

ストレス

転職早々、
渡航が延期となってしまい
幸先の悪いスタートとなった私。
手伝っていたカラオケルームは
繁華街にあるために
かなり忙しいのだが、
気まぐれにアホアホマンから
上海のボウリング場の運営について
ミーティングの招集がかかり、
3時間、4時間と会議をさせられる。
どうやらアホアホマンが
アイデアを思い付いたら
すぐしゃべりたくなるので
急に招集されるとわかった。
要するにアホアホマンのきまぐれに付き合う
接待ミーティングなのだ。
接待ミーティングでは
こちらからの意見は採用されないし
結論も出ない堂々巡りが繰り返される。
さすがに超若手の私でも途中から
「あれ?こいつアホちゃう?」
と気付いてしまったのだった。
ミーティングがない日は
遊びに連れ出されて接待をさせられる。
それらは当然超多忙なカラオケルームで
接客をする合間にこなすのだ。
そんな辛いカラオケの現場で働いた期間は半年。
若い時期に気を使いながら
パワハラ気質の上司と働く半年間。
やりたくない仕事をするストレスは相当なもので
これでよかったのかと
自問自答する辛い日々だった。
本当に長い長い半年だった。

メンタル

そんな日々で
私はメンタルがやられてしまった。
毎日仕事に行くのが辛い。
しかし当時は若くて猪突猛進だった私。
中国移住への希望を頼りに
乗り切るしかなかった。
しばらく我慢すれば上海に行ける。
劣悪な労働環境に身を置き、
嫌いな日本から
逃げる事ばかり考えていた。
そしてある日駅のホームで
電車を待って立っていると
涙が溢れて視界が狭くなり
ホームに入ってくる列車に
吸い込まれそうになった。
電車に飛び込み自殺する人は
あの感じなのかもしれない。
非常に危なかった。
これは後に私の人生に
影響を及ぼす出来事だった。
しかし当時の私は前を向いて
進むことだけを考えた。
やりたいことをやるためには
多少の我慢は必要だと
自分に言い聞かせたのだ。

1997年 移住

日本の負け組が中国へ移住することになる

惚れてしまった

そんな中、
当時彼女がいなかった私は
そのまま上海に行くつもりでいた
しかし好きな人ができてしまった。
これもかなり悩んだ。
相手に想いを告げるか、
どうせ彼女を作っても
すぐに日本からいなくなるから
黙って去るかの二択。
まぁ悩んでも仕方がないし
どうせ玉砕すると思ったので
想いを告げる事にした。
すると彼女はこう言った。
「でも中国行くんやろ?」
え?フラれるんじゃないのか?
「おまえに会いに帰ってくる。
飛行機で3時間も車で3時間も同じ。
距離が違うだけや。」
愛おしい気持ちが溢れて
本能で押してしまった。
渡航3か月前に彼女ができたのだった。
そして時折彼女が言う
「頑張ってや」
の言葉を精神的な支えにして
崩壊しかけたメンタルを
突き破って前に進むのだった。

上海出張

カラオケの仕事をしながら
上海出張へ一度だけ行くことができた。
久しぶりに乗る飛行機に少し緊張した。
忘れていたが私は高所恐怖症なのだ。
まあまあ飛行機が怖かった。
さて、出張目的は現地の下見、人材探し
お役所とのリレーションなど。
やっと上海の地に降りた私は
日本で過ごしている時と
全く違う精神状態だったと思うが
当時の私はそんな事は気づかずに
とにかく前向きでいるしかなかった。
その時は行きたかった場所に
やっと行けたという
浮ついた感覚で、
中国に対する第一印象もあまりなく
あっという間の3泊4日であった。

雨男

辛い日々をなんとか乗り切り
やっと移住の日が決まった!
私が上海に引っ越しする日は
1997年3月15日だった。
旅立ちの日、
真新しいキャリーケースを
転がして実家から空港へ向かう。
私は雨男なのだが、
なぜかその日は天晴れな快晴だった。
これは幸先が良い!
意気揚々と空港に向かうため
電車に乗り込む。
その電車内で偶然にも
前職のボウリング場の同僚と会う。
その人は前の会社で正社員なのに
ある日突然ぶっち辞めした
破天荒な女性だった。
新たな門出に前職の同僚に
同じ車両で出会うとは変な偶然だ。
しかもその人も
同じ空港へ向かう途中だった。
ちなみにその人とはそれ以来
数十年間一度も会っていない。
小さく奇妙な偶然に少し驚きながら
関西国際空港でアホアホマンと
もう一人の上司、同僚、私の4名は合流した。
やっと上海航空の機体に乗り込んで
私は異国へ旅立った。
すごく若かった24歳の私は
約束された出世と共に
意気揚揚と上海虹橋空港に降り立った。
暗くなった上海はしっかり
雨が降っていた・・・
私はやはり雨男だった。

異国は楽しい

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