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ファシリテーションは道具である

私は「ファシリテーションは道具に成ればよい」というか、使い方が合っているかとか、それはファシリテーションじゃないとかそんな感じではなく「使う物」という存在になればよいなぁと思っています。

何かができること、何かができなければ、ファシリテーションではない…ではなくて、何かするのにファシリテーションを使うだけ。ファシリテーションは答えの見つかる思考プロセスでもないし、会議がうまくいくためのフレームワークでもないし、ハサミという道具を使った結果、怪我もするし、作品ができたりもするし、何かを作るための材料ができたりもする。そんな道具であるファシリテーション。

ファシリテーションを高尚なものにしてもあまり意味はない気もするし、300時間の学習が必要なものでもなくて、今のあなたがすぐに使えるもの。そもそも私自身が本を読むのも苦手だし、理解とか記憶するのもあまり得意ではなくて、いわゆる経験学習がメインです。本はパラパラとめくる程度(完読したことはあまりなく…)なので、どちらかというといろんなファシリテーターの場から学んでいることの方が多いです。

では、ファシリテーションはどんな道具なのか

ハサミが切れるものに対して使うことが多いというように道具には使う対象が必要だとすると、「人」が対象というか、「場」に対して使う道具です。

無形の道具なので、人の「意識の仕方」で形と効果が変わります。(こうなると某漫画の「念」みたいな感じ…w)

例えば「参加している人の一部が緊張していて、話がしづらそう」という状況を思い描いてみてください。みなさんはどうしますか?

例えば私なら、緊張している人に声をかけて言葉を発してもらい緊張を解いてもらおうとか、緊張していない人と私が軽い話題で話すのが聞こえる感じであっためて、聴くだけしてもらって緊張を和らげてもらおうとか考えます。場面によっては緊張感を活かしてぐっと深い話に持っていこうとかも。つまり、状況に対して目的を持って場に作用する行為を意識的にする行うコト(何もしないも一つの行為)をファシリテーションと考えます。そしてこれらのことそれぞれはきっとみなさんも思いついたり考えてみたことだと思います。

とすると、ファシリテーションはなんでもありなのか?

ファシリテーションは道具だと、つまり「使うもの」だと思っていますが、「ファシリテーション(facilitation)」という英語の単語になっている時点で意味あり、その意味は「促進する」と日本語では訳されているところもあるので、作用する行為の結果の方向性は「促進」ではあると思います。あとは促進をどう捉えるかで、「前進」と捉えるか、戦略的になら「後退」も「促進」と捉えるか、それはファシリテーションを行う人の感覚によります。ファシリテーションは人の数だけあるでしょう。そしてそれが促進かは場が知っているというか、誰も知らないというか、ただその促進と思われることに道具を使い、その結果をまた観て、また道具を使っていく。ただそれだけなのだと思います。

ファシリテーターは道具の使い道を探す

ハサミの使い方として「楽器」として使うこともできます。切る音、ハサミを動かす音で音楽の一部にできる。これもハサミという道具の使い方の一つです。作用の意識の仕方は柔軟に。ファシリテーション的にいうと「何もしないで委ねるファシリテーション」みたいな。参加者と作る場では、その流れの中で道具の使い道を探して、その場でそんな柔軟なファシリテーションを選ぶことができることを私は目指しています。一本道ではないという意識も大事な要素なのかもしれません。ファシリテーター的に場をデザインするとしたら、大きな道で振れ幅は大きく取れるとか、枝葉の道も模索しておくとか、場合によっては道を新しく作っていく…そういうデザインをしている感じがします。ファシリテーションという道具の使い道を考えながら使っていくという。

ファシリテーターは人の数だけ

在り方という意味では、その考え方、捉え方、作用の仕方、人の数だけ方法はあると私は思います。故にファシリテーション自体は、曖昧で、柔軟で、使い勝手の良いものであり続けてくれるとうれしいです。

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