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「寝かせること」の大切さ

きょう、2週間ぶりに三味線の稽古に行った。
週に1回、2時間をほぼ毎週欠かさず続けていたので、ブランク明けは鈍っているのではないかと心配だったが、
演奏を初めて見るとおもしろいことに気付いた。
迷いのあった譜面の進行、バチで弦を叩くときのクセ、余計な思考や動作が削ぎ落とされ、とてもスムーズに弾くことができ、これまで毎回間違っていたところで間違えなくなっていたのだ。

演奏後の達成感の中で、これは「超回復」のようなものではないかと思った。
筋トレで体を鍛えるとき、絶え間なく負荷をかけ続けるのではなく、あえて一定の休ませる時間を与えることで、かえって成長するという理論である。

傷んだ筋肉が栄養を補給し、回復するまで休ませるというのは感覚的にも納得できるが、思考や動作についてもこの理論は通用するのだろうか?

ふと、自宅の本棚にあった外山滋比古の『思考の整理学』(ちくま文庫)を思い出した。
めくってみると、「寝させる」という章に、これに通じる面白い記述があった。やや長いが、一部を抜粋して紹介したい。

イギリスの十九世紀の小説家にウォルター・スコットという人がいる。すぐれた歴史小説を書いて、文学史上、有名である。
このスコットは寝て考えるタイプであったようだ。やっかいな問題が起こる。どうしたらいいだろう、などという話になると、彼はきまってこう言ったものだ、という。
「いや、くよくよすることはないさ。明日の朝、七時には解決しているよ」。
いまここで議論するより、ひと晩寝て、目をさましてみれば、自然に、おちつくところへおいついている、ということを経験で知っていたからだろう。(中略)なぜ、作家の幼年、少年物語にすぐれたものが多いのか。素材が十分、寝させてあるからだろう。結晶になっているからである。余計なものは時の流れに洗われて風化してしまっている。長い間、心の中であたためられていたものには不思議な力がある。寝させていたテーマは、目を覚ますとたいへんな活動をする。なにごともむやみと急いではいけない。人間には意志の力ではどうにもならないことがある。それは時間が自然のうちに、意識をこえたところで、おちつくところへおちつかせてくれるのである。
努力をすれば、どんなことでも成就するように考えるのは思い上がりである。努力しても、できないことがある。それには、時間をかけるしか手がない。幸運は寝て待つのが賢明である。ときとして、一夜漬けのようにさっとでき上がることもあれば、何十年という沈潜ののちに、はじめて、形を整えるということもある。いずれにしても、こういう無意識の時間を使って、考えを生み出すということに、われわれはもっと関心をいだくべきである
(外山滋比古『思考の整理学』,ちくま文庫)

この本では、知識や経験をどのようにアイディアに結びつけていくかという問題にヒントを与える形で書かれているが、時の試練に耐えて本質的な部分だけが残ったという考え方をすれば、私が三味線で感じた楽器の演奏のように、他のことにも通じるものは必ずあると思う。

「あしたヤロウはバカヤロウ」は日々意識していることの一つで、その日できることを次の日に持ち越したくない性分だが、根を詰めてやるだけではうまくいかないこともある。

小学校のとき、クラスメイトが朝の日記発表で「無くしていた自転車の鍵が台所の戸棚にあったのを夢の中で見つけて、朝そこに行ったら本当にあった」というプチ世界仰天ニュース的な奇跡を発表してくれた記憶が蘇る。身近なことでも、一晩寝て考える、というのは合理的なのかもしれない。

あしたまでにやらなければならない、でもどうしてもいいアイディアが浮かばない。そんなときは思い切って翌日の朝に持ち越し、早起きしてもう一度取り掛かってみる。

そんな余裕をつけたい、社会人4年目の春である。 
春眠暁を覚えず・・・とはいえ、寝かせ過ぎもよくない。

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