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ある靴磨き職人との出会い

就活を終えた大学4年の初夏、下北沢の古着屋で一足の靴を買った。
焦げ茶色のストレートチップ。薄暗い店でオレンジのスポットライトを浴びていたその靴はとにかくカッコよく、黒い靴しか履けなかった就活が終わったのだからと9500円で衝動買いした。

しかし、帰って袋から出してみると驚いた。かかとの内側に無数の黒い傷がある。おそらく前に履いていた人が、かかとの靴底でひっかけて脱ぐ使い方をしていたものだった。
自分の革靴クリーナーでは何度磨いても落ちない。店では全く気づかなかったのに…薄暗さに騙されたのだ。

ショックを受け、靴好きの先輩に相談すると、南青山のある店を教えてくれた。
「靴磨き専門店で、一足3000円。かなり高いけど、まあ行ってみなよ」。

半蔵門線を表参道で降り、Google マップを頼りにブランド店や粋なセレクトショップが立ち並ぶ一角を歩いていくと、薄暗いビルがひとつ。
薄暗さには嫌な記憶が蘇ったが、バーかと見紛う店内に入ると、バーテンダーかと見紛う男性が数人。
恐る恐る尋ねてみる。「靴磨き、お願いしたいんですけど…」。

髪を綺麗に分け、仕立ての良さそうなスーツを着た男性が笑顔で応じてくれた。
「ジョンストンアンドマーフィーですね。いい靴です」。

古着屋で買ったこと、まだ履いていないこと、傷に気づかず買ってしまって消して欲しいことを伝えた。
すると、色味が落ちてしまう可能性があること、やってみるが革が特殊だからもしかしたら消えないかもしれない、など言われたが
その次の一言が今でも忘れられない。

「この傷は、これから付き合っていくのが楽しみかもしれません」。

傷を消せないかもしれない、頼みは聞けないかもしれないという状況で、普通の人はその言葉が出てくるだろうか?
私は出てくるとは思わない。
傷をじっくりと見つめながら、その靴が持ち主とともに歩んできた”人生”に思いを馳せていたに違いない。
決して、「できない」ということをきれいな言葉でごまかしていたようには聞こえなかった。
靴を愛さないと出てこない言葉だろうと妙に感動して、この人が磨いてくれるなら傷は消えていなくてもいいや、と思った。

あとで知ったのだが、その人が「ブリフト・アッシュ」の店長で、次の年に靴磨きで世界チャンピオンになる長谷川裕也さんだった。

1週間後。
靴を取りに、もう一度店を訪れた。
靴は全体が鏡のように輝き、別の靴に生まれ変わっていた。
その店の照明も薄暗かったが、古着屋で買ったことを忘れるくらい、まぶしいくらいに美しく光っている。

かかとの内側にあった傷はきれいに消えていた。
そのかわり、磨き上がった靴の表面には自分の歪んだ笑顔が映っていた。

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その長谷川さんが、先日の「プロフェッショナル」に。
「靴だけでなく、その人の人生を磨く」。仕事に向き合うその姿勢に心を打たれました。期間内はNHKプラスで見られるので、ぜひ!






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