「アリーナの153番」だった日

好きなタイプは?と聞かれると、どう答えればいいか一瞬悩む。好みの顔について聞かれているのか、一緒にいて幸せな人間について聞かれているのか、あるいは性欲を満たしてくれる理想の存在について聞かれているのか、目の前の相手の性格や自分との関係値を測って何を基準に答えを出すか決めなければならないので難しいのだ。

一応「弘中綾香さんです」と答えることが多いが、これも一面的な真実にすぎない。綺麗な方だなと思うし、前髪のさらっとした美すだれ(美しいすだれ)のような髪型も素敵だと思う。だがそれだけだ。私は弘中さんの性格も、髪型の名前も、彼女の何もかもを知らず生きている。これを「好き」と言っていいかは分からない。


恋愛小説の名手、江國香織さんの作品で『犬とハモニカ』という短編集がある。この中で私は『アレンテージョ』という作品が特に好きなのだが、この中に出てくる青年ルイシュと恋人のマヌエルとの夕食のシーンで、こんなことが書かれている。
《僕は思うのだけれど、おなじものをたべるというのは意味のあることだ。どんなに身体を重ねても別の人格であることは変えられない二人の人間が、日々、それでもおなじものを身体に収めるということは。
僕たちは十全にそれをした。》
(江國香織『犬とハモニカ』新潮社、2012年、191頁)

この話の中で、二人は同じものを自らの中に落としこむことで一瞬だけ愛する人と同一になった。しかし、同一化そのものが恋というのではない。むしろ、どうやっても同一になれない、個別に生きる存在どうしがそれでも互いを求め、なんらかの事柄を共有すること。
二つの振り子がふっと触れ合うようなその瞬間を愛おしみ、求めること。
それこそが「好き」であり、それをしたいと思える相手を見つけることが恋なのかもしれない。











これはチュリサスです。

脈絡が無いと思うだろうか。恋愛の話からいきなりこんなゴリゴリの顔面ペインターズの画像を貼るなんて。

でも、脈絡が、あるんです。


好きだった歌い手の話をする。

''だった''というともう好きではない感じがするが、今も全然好きだ。が、一番追いかけてた時期は過ぎてしまったのでここでは過去形で表す。

高校時代の話。

ニコニコ動画を主な拠点に、歌い手や生主として活動していた彼のことが私は心底好きだった。動画があがればすぐにコメントをしに行ったし、たまにやる生放送はその他の全てを犠牲にしても優先した。(ニコニコ動画はカスなので、金を払わなければアーカイブが見れなかった。今もそうなんですか?)
彼が「お前らはもっとメタルを聴け。」と言ったので上記のようなバンドの曲を聴くようにもなった。もっとも、例として挙げられていた彼らくらいしか知らないけれど。

物販ブースで彼にビンタをしてもらえると聞いて、地元のライブハウスに行ったこともないのに東京で行われる地下のライブに行こうか悩んだこともある。彼の口からビンタについて「やらねぇよ」と明言されたし、東京が怖かったため結局は行かなかったが。

また、彼のファンコミュニティには「すき」とか「良い声」など、あえて語彙を消失させてコメントをするという暗黙のルールがあった。
そういう内輪のノリも含めて、彼のファンであることそのものが楽しかった。


ある日、彼が平日の朝から生放送を始めた日があった。その時私は高校行事の遠足で水族館に行くためバスに乗っており、話す友達もいなかったので、これ幸いとばかりにスマホにイヤホンをつけた。
放送タイトルはたしか、「無職のお前達へ」とかそんなだったと記憶している。車内の浮ついた空気、空もむやみやたらに晴れている中、アングラ的な湿っぽいインターネットの空気が心地良かった。

基本的に彼のテンションはローだ。朝というのもあったのかもしれないが、その日も淡々とした調子で雑談を始めた。
歌い手らしく音質にこだわったマイクが、吐息も含めた彼の声をあまさず伝えてくれていた。

歌い手「はい、雑談をやります」

「ありがとう」
「すき」
「うれしい」

歌い手「ね〜。ほんと……朝です。お前らこんな時間になにしてんの」

「無職だよ」
「学生」
「朝の会の前だよ〜」

歌い手「うっわ朝の会懐かしいな〜。てか無職は寝とけよ、無職なんだから」

「草」
「無職になってから生活リズム老人になった」
「無職は早起き」

歌い手「へー、意外とそうなんだ。なんか、整うんだ。生活リズムが」

「『人間』って本来そうだからね」

そのコメントを拾ったとたん、それまで一定のトーンで喋っていた彼が高笑いをあげた。
私のコメントだった。

歌い手「たっはっはっは!そっか!そうだよな!人間ってそうだもんな!元に戻ってんだよなお前らは!体が!健康な時期に!はっはっは、『人間』て。えー面白いじゃん、おい、アリーナの153番。人間ってそうだよな」

私の番号だった。何が起こったのか分からなかった。
私が書いたコメントが拾われただけでなく、その番号を彼が読み上げた。放送を見ている有象無象のファンの中で、明確に私にむけて話しかけてきたのだ。

雷が落ちるような衝撃とはこういうことかと思った。

その後の水族館でも私はふわふわしっぱなしで、ペンギンを見たりシャチに水をかけられたりしている間も、ずっと私はアリーナの153番だった。

これもさっきの話と同じである。歌い手とその一ファン。個人として交わることは出来ない二つの人生が、その振り子が、''無職は早起き''という話題の力が加わったことで一瞬だけ触れ合ったのだ。なので私はいまだに無職の人に対しての印象が良い。早起きをしていて偉いし。

しかしそう考えると、いわゆる投げ銭、スーパーチャットというものは極めて現代的なラブレターなのかもしれない。
金銭という共通項を通して、好きな人と一瞬だけ人生を重ねることの出来る手段。

またこれは逆説的ではあるが、振り子を触れ合わせることによって触れ合った自らの存在が規定されるということもある。
一ファンでしかない自分がその瞬間だけ好きな人にとっての「スーパーチャットをくれた人」になれる。私が彼にとっての「アリーナの153番」になったように。
これはファンにとっては本当に大きいことだ。一人の人間として認識され、自分の気持ちを伝えられる瞬間。
ただ忘れてはいけないのは、あくまでそれが''貢ぎ''だということ。恋したオタクほど金銭的にちょろいものはない。


時が流れ、今彼は新しいバーチャルな肉体を手に入れ、そちらをメインに活動している。歌い手としての活動も続けているが、バーチャル活動が大忙しな分、どうしてもそちらに時間を割かざるを得ないのかなといった状況が見てとれる。
もちろんVTuberとしての活動の中ではスーパーチャットも解放している。彼にとってはもう誰かから形を持った愛を受け取ることは日常になってしまっているかもしれない。でも、それに対して寂しいとも変わったとも思わない。

私が好きな人はその人生を生き続け、その声の在り方に名前をつけることに意味は無い。
あなたが今のあなたとして精一杯輝いていることが私は何よりも嬉しいのだ。


きっともう触れ合うことのない振り子ではあるけれど、「アリーナの153番」だった日のことを私は忘れない。


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