お風呂上がりの金玉をドライヤーの冷風で冷やしている時と同じような

嫌な人のことを厭(いや)な人と呼びたい。やわらかな望みです。「目が覚めてすぐちょうどいい温度の白湯が飲めるように、それ専用の蛇口がほしい」と同様の、世界に対するやわらかさの希求。
言葉を言い換えたがる人をよく見ます。ネガティブな言葉を使うと気分が下がるからポジティブな言葉に言い換えようという人とか(そういう人全員にパンチしたいと思ってるけど。気分って下がってれば下がってるほどいいので)
ただこの「嫌を厭に言い換えたい」というのはそれとはちょっと違って、単に表現しきれてないなという思いから来る言い換え欲。
凄く抽象的な話になるんですけど、なんか“嫌”って雑に使われてる感じがする。たとえば苦手な虫とか汚い物とかはそれそのものに対してのみ悪感情を抱くけども、苦手な人ってもうなんか、その人の笑い方とか所作の一つ一つ、その人がいる空間ごと嫌悪感を抱いてしまうというか、その人が関わってる全てのものからできるだけ遠ざかりたいという気持ちになるじゃないですか。その悪感情の広がりを“嫌”という言葉は含みきれてるのか?という。「苦手な虫」と「苦手な人」だと無理〜って思う気持ちの範囲が違うのに、どっちも同じ“嫌”という言葉で表すのってなんか雑じゃないかと考えてしまうのです。なんか、お風呂上がりの金玉をドライヤーの冷風で冷やしている時と同じような感じ。本来ドライヤーは髪を乾かすものなのに、その用途が金玉にまで及んでしまっている。そういう雑さ。
その点、“厭”ってやっぱ、うにょ〜んとしてる。現代ではなかなか使わない言葉であるからこそ、言葉の輪郭が定まってない感じ。そのうにょ〜んとしたスペースに苦手だな〜この人っていう気持ちのどよ〜んが流れ込んで上手いこと表現出来ている気がする。余白。“嫌”より“厭”の方が言葉の余白が多い。よって、こと人に対しての悪感情を表明する時には“厭な”と言った方がいい。
ネガティブな言葉こそ深化と分化を進めるべきです。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という有名な一文がありますが、ネガティブな方向にこそ人の心は多様に動き、むしろそれこそが人の心の豊かさとも言えるのですから、それらを受容する言葉もより多くあるべきです。不幸の中にこそ、より多くの言葉がいる。
なので、別に好感情を表す言葉はそんなに多くなくていい。ラッコのかわいさと西城樹里さんのかわいさは全然違うけれど、どっちもかわい〜と言っていれば良いのです。

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