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自信が過ぎると逆に痛い目に合う

自分の判断に絶対的な自信があるか、と聞かれれば、首を傾げる人の方が多いだろう。それは自信がないのではなく、未来のことは誰にもわからないから“予測”を断言することは避けたい、という危険回避の反応だろう。いやわかる。私だって同じように聞かれれば、そういう態度になる。ただ、いまは自由の身であるからして、多少の誤差は見込んだうえで大きく首を縦に振るかもしれない。その差は何か、と聞かれれば、自分の責任において仕事ができる点にあると思う。逆にやれる、という多少なりとも自信がなければやっていられない。自信のないフリーランスっていう方に会ってみたいものだ。

そもそも、私たちはいつごろから予知能力が発達したのだろう。どんなに楽しいことでも、その過程においては多少のトラブルはあるはずだ。高校のとき、学園祭で盛り上がるなかで、事務局と運営方法でぶつかった。担当者の前でポスターを破り去ったのはかくいう私である。結果としては楽しく、しかも大成功に終わったと思うが、お金のことや人間関係など、とにかく田舎の高校生レベルでさえこの有り様だから、成人でしかも会社というひとつの枠組みのなかで責任を持ってやり抜くということがどれだけ困難かはわかる。しかし誰かが前を向いて歩いていかなくては、周りに迷惑がかかるだけでなく、結局は何も得ることがなく終わってしまうだろう。そんなオペレーションは勘弁してほしい。

では実際にどうすればいいか。単純なことだが、答えが出るまで待つことだと思っている。いままでは、どちらかといえば相手に答えを促すように、それこそ手を変え品を変えて想像で結果を作り上げていった。よく考えてみれば、そういう仕事の仕方しかしたことがなかったような気がする。なんて寂しいことだろう。自分の身を削って仕事をするなんて、鶴の恩返しのエピソードのようではないか!もうそろそろ“いい人”は卒業したい。企画はタダだと思っている人たちに怒りの鉄槌をくらわすためにも、動きを止めて答えが、いや判断が出てくるまではてこでも動かない覚悟を決めようと思う。

なぜこんなに頑なになっているかって?そう、それなりに知識や経験のある人なのに、いやそういう人だからかもしれないが、あまりにも稚拙なディレクションに切れそうになったからだ。こちらも真剣にやっていると、良い悪いの判断もつけられない人たちとは仕事ができないと思う。さすがにあまりにも過激な人もいたことはいたが、全体的に田舎体質にどっぷりつかった人たちには、誰かを超えてやってみようとか、新しく変えてみようとか、口ではいっても何も変わらない、変えない人のほうが多い。はっきり断言していいだろう。たぶん、ほかの地域も似たり寄ったりだとは思うが…。

ああ、今日は本当に腹が立った一日であった。こういう気分のときに書くものは、たいていロクな内容になっていないことが多い。単なる自分の愚痴になっているだろう。もうはや推敲さえもできないくらい思考回路が止まっている。これから、本当に自分で何かやってみたいと思っている人に関わっていかないと、どんどん自分もオペレーターになってしまいそうで怖い。かといって私もこれで収入を得ている以上、クライアント相手に説教たれる訳にもいかず、相変わらずのどうどう巡りだ。さきほど独立したデザイナーから電話があった。仕事が多くて裁ききれないとのこと。彼もまた怒濤の一発ねらいにならないよう、闘う起業家であってほしいな。自信が過ぎると逆に痛い目に合うことを体験した私からの忠告である。

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こういう愚痴のような原稿を書いている時は
精神状態がろくな状況ではない。

なんて寂しいとか
そろそろいい人は卒業したいとか
威勢のいいことを言っている割には
翌日もまた同じような仕事をしているだろう。

そういうことを繰り返しながら
自問自答を続けながら
答えを見つけ出したり
何かを本気でやりたいと思う人に出会うとか
つまらない日常に向き合うからこそ
運命が待っている。

その後
運命の人が現れて
志を共にしていくのだが
それとて永遠ではない。

人は変わるし
自分も変わる。


やるだけやれたじゃない。
後悔することなんて何もないじゃない。

今は向き合うことが内側にあって
それこそ自分との闘いにステージが変わった。

愚痴を言っている場合ではなく
自分との勝負が待っている。

これからも自信を持って
人生に向き合いたい。

#あの頃のジブン |50

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