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歴史快道を自転車で往く#03

中山道
③関ヶ原宿〜今須宿〜柏原宿〜醒井宿篇


前回からの続き。
【関ヶ原宿】を抜けて、【今須宿】へ向かいます。

私は石田三成が好きです。好きという言葉は語弊があるかも知れませんが、徳川家康という大大名に、豊臣家への大義だけで果敢に戦いに挑んだ姿に心を寄せたくなります。明智光秀にも同じような向き合い方をしています。

何かを得るというより何かを失うというのは、人の生き方に通じると思うから。何年か生きながらえて、何が遺せるというのでしょうか。確かに若い時はそんなこと微塵も思いませんでしたが、歳を取るにつれて、これまで何のために生きてきたのだろうと思うことが多くなったからでしょうか。

この生命を賭けられるほどの、生きている証がほしいと思う年頃です。

大谷吉継 陣跡
関ヶ原宿 立場


■関東と関西の分かれ道
関ヶ原宿から今須宿に向かう間に【不破関】があります。西暦672年に古代国家初の内乱である〈壬申の乱〉の激戦地跡もあります。興味のある方はぜひ一度訪れてみて。ちなみに関東と関西の境界は、不破関から東か西かで決められたらしい。ということは、名古屋は関東ということ?

不破関跡

→→→ 【今須宿】へ

■不審者は立ち入り禁止🈲
ここは国道21号線と並走するように中山道が走り、こぢんまりとした集落を形成しています。ちなみに、街をゆっくりと眺めながら写真を撮っていたら、知らない間にパトカー🚔が後方で様子を窺っていた。そんな不審だったかな😭

今須宿 入り口

■国境(くにさかい)の旅人たちの物語
ところで、みなさんは「寝物語」という話を知っていますか?美濃と近江の国境になっている標柱がその伝説の場所。その昔、源義経を追う静御前が、家来の源造に奥州まで連れて行ってと懇願したという話を、両国の宿に泊まる旅人が寝ながらしていた(そのくらい近い)ことから「寝物語の里」という名が付いたとのこと。

美濃国と近江国の国境

ここでもそうだが、国道から一本奥に入ったところに、このような遺跡があるなんて、たぶん、地元の人も知る人ぞ知るということではないでしょうか。

江戸幕府によって東海道が整備される前に、東西をつなぐ街道は東山道と呼ばれましたが、所在を知る由はありませんでした。柏原宿に向かう途中、何気に山側に目をやると、突然、〈旧東山道〉という石碑が立っていました。

ちょっと興味があって、自転車で藪の中に入って行きましたが、さすがに行き止まりになってしまって…残念😢怪我でもしてはいけないので、引き返すことにしました。

旧東山道 入り口

こんな立派な碑も建っていて、私たちのような旅人に、この地域を知ってもらうためのインフラが整備されています。

中山道 道標石

→→→ 【柏原宿】へ

東海道線の踏切を渡って柏原宿へ。ここは宿場町の外側に沿って東海道線が走っており、日常生活との親和性が高い宿場になっています。中山道が広く知られるようになり、民泊施設もあったり、高齢者や外国人などが訪れる機会も増えてきたということ。

柏原宿 問屋場
柏原宿 案内図
雪が残る中山道をゆく

→→→ 【醒井宿】へ

■醒井(さめがい)なのに鱒の養殖
今回、とても楽しみにしていたのが、【醒井宿】です。大学時代に京都に住んでいた私は、時折、自転車や原チャリ🛵で実家まで帰る途中で醒ヶ井に寄ったことがあって、その時の水の綺麗さに感動したことを思い出したからです。

醒井宿 見附跡/枡形の案内

醒井地域は清流・地蔵川が流れる美しい町で、かつては中山道61番目の宿場町醒井宿として栄え、今でも当時の風情を感じることができました。

醒ヶ井宿 問屋場

それぞれのご自宅や店舗の前を緩やかに流れる、地名の由来にもなった居醒の清水を源流とする〈地蔵川〉は、全国的にも珍しい【梅花藻】が生育する場所として知られ、毎年、夏には全国から多くの観光客が訪れる人気スポットになっています。

地蔵川

ちょうどお昼過ぎだったので、駅前のお店「かなやKitchen 」でローストビーフ丼をいただきました。本当は名物の虹マス丼を食べたかったのですが、残念なが売り切れだったので、また来たときにいただくことにします。

JR醒ヶ井駅

今日はここまで。JR醒ヶ井駅から東海道線に乗って自宅まで帰ることにしました。

JR醒ヶ井駅から見る伊吹山

プラットフォームからは、雪化粧した伊吹山を見ることができました。さあ、次回はいよいよ琵琶湖の近くを走ることを楽しみにしましょう。

--- 次回、番場宿へ-----

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