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【しらなみのかげ】 「書くこと」とは「文字を書く」ことである #12

8日の分を今投稿するのは日付変わって10日になった今、おかしいのかも知れないが、昨晩も又、仕事仲間であり友人でもある人々と相談がてら身の上話や他愛も無い雑談に電話で花を咲かせてしまい、書き掛けで止まっていたままだった。遅れて投稿する。

 

 

京都に帰って来た。

所用があったので新幹線を新神戸で降りて、神戸を経由して、長い道のりを掛けて家に帰って来た次第である。

京都の私の家は、古い木造なので寒い。

それでも今日はまだ割りかし暖かい方だったので、何とかなるものの、どうせ又冷え込みがやってくる。マンションであり、ホットカーペットもある実家の快適さを帰宅して一日目に思うことになった。

そして私の家は、部屋自体は結構広いものの、収納が無いために衣服など物が散らかっているのと、整理出来ていない古い書類を置きっぱなしにしていることと、そして何より、経済的困窮を尚も困窮に追いやるようにして必死に買い集めている(そして大変有難いことにAmazonのウィッシュリストで多くの方から沢山頂戴出来ている)厖大な量の書籍のせいで、活動出来るスペースは至極狭い。これは何とかして少しでも整理整頓して、活用出来る床面積を広くしなければならない。善は急げ、明日からでも始めよう。何より、昨年の多忙さは嵐の如き状況の変化によって去ったのだから。

 

こうして「しらなみのかげ」を遅れつつも更新し続けるようになったことも又、身辺の事情が変化して時間的な余裕が出来たことによるものである。やはり私の召命は読むことと書くこと、そして話すことにあるように思う。資金は益々逼迫する可能性も高いが、それでも書くしかない。

 

京都に帰って来ると、その思いでいよいよ身が引き締まる。

元日の更新でも書いたことだが、昨年は山の天気の様な激しい転変の中にあった。その中には良いことも苦しいことも楽しいことも苦々しいこともあったが、私なりに必死にもがいた事の多くは、残念ながら裏目に出続けた。何分にも、私に根本的に余裕が無い為である。知人友人から何かの拍子で嫌悪されたり、多くの人々の期待を裏切ったりすることも多くあった。

 

それでも前に進むしかない。

少なくとも、文章を書くことは私自身を裏切りはしない。その時、「質」を殊更に気にする必要は無い。兎に角、頻度であり、「量」である。私の身体が真に「書く身体」へと生成変化する時、苦の中に楽が、楽の中に苦が現れる。それを繰り返していく内に、「書く身体」が私自身になった時、それは一つのハビトゥスとなるのであろう。その時までは、苦しくても兎に角書く、書いてみるしか無いのである。これは去年の私が忘れていたことだと、今はつくづく思い、反省するのである。

 

さて、書くということは、「文字を書く」ことである。当世では無論、実際にペンなり鉛筆なりで「書く」ことではなく、キーボードで「打つ」ことの方が主流であろう。

何を今更莫迦なことを、と言われるかも知れぬ。

しかし、これは迚も大事なことである。

 

というのも私達は普通、文章を書くことを岩場「意味内容を書く」ことの様に捉えている節があるからである。しかし実際に書いているのは、「意味内容」そのものなどではなく「文字」なのだ、ということである。かのジャック・デリダが、ソクラテス以来西洋形而上学を支配していると彼が見抜いた音声中心主義を告発し、その長き歴史の中で二義的なものとして扱われ続けた文字−「書かれたもの」=「エクリチュール」の固有性を見出したことは、今は詳しく論じることは出来ないし私はその人に無いだろうが、やはり慧眼である様に思う。

声の現前により意味が、論理が現前するのであり、文字とはその模写でしかない−デリダが批判した音声中心主義の構図をこの様に乱暴に纏めてしまうならば、「書くこと」は実の所、「死んだ声」としての文字を書くことではない、ということである。真なる内なる声=真なる意味や論理を思考の中で手に入れ、それを文字で写し取る、という仕方が−これこそが、「死んだ声」としての文字を書くことなのだが−最も普通の意味で「書くこと」であると考えられているだろう。デリダを想起しつつ私が言いたいのは、「書くこと」それ自体は元来そうした営みではない、ということである。

「書かれたもの」は飽くまでも文字なのであって、意味ではない。線で構成された記号の連なりを一まとまり一まとまりと刻み付けることが、「書くこと」なのである。その記号とは言葉のことであり、言葉である以上勿論意味を持つ。

しかし、言葉の前に意味があるのか、言葉の前に意味があるのか、というコロンブスの卵の如き哲学的問いに答えを出すのは「書くこと」である様に思う。「書くこと」が、現実の時空間の動静とも我々の心の動きを構成する諸々の意味内容とも別の現実を創り出すからである。

文字記号は意味の媒介であるにしても、この媒介が現れぬ所に意味は現れぬ。そして新たな媒介の現れは、思いも付かぬものを齎し、その思いも付かぬものが又次なる媒介を呼び寄せる。兎に角これを繰り返してみること、これが「書くこと」なのだろう。「文字を書く身体」こそが重要である所以である。

嘗てロラン・バルトは「作者の死」を書き、モーリス・ブランショは『文学空間』を書いたが、私なりに考えてみれば、その何れもが「文字」を以て「書かれたもの」の固有性を言い表さんとしたものであっただろう。「書かれたもの」、その記号の連なりは既にしてヴァーチュアル・リアリティなのである。

 

人生の真理は、言葉にならないものにあるのかも知れない。しかし私達はそれでも書くしかない。Ars brevis, vita longaという古諺を今こそ想起すべきであろう。文字は残る。幽霊の如く、残る。石や木に刻み付けられた傷として、紙に染み付いた墨やインクの染みとして、そして今ならさしづめ、ネットの海を浮遊する記号の羅列として。

 

こうして兎に角書いていたら、最早推敲どころではなく長々と様々なことを書いてしまったではないか。蓋しこれも又、書くことの魔力であろう。

(この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭をお待ち申し上げております。)

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