象牙の塔と俗欲の下界を往還して

 月日の過ぎるのは早いものである。
 寒い寒いと身体を震わせる毎日が続いていたと思っていたら春風と陽気が冬の終わりを告げ、もう三月、年度末である。この季節は毎年本当に忙しい。
 今年の正月がまだ最近のことのように感じるが、もう二ヶ月も経ってしまっているのだ。私もそれなりの歳になってきたせいか、月日が過ぎるのが段々と早く感じるようになっていることを実感する。私の周りには歳上で目上の人間が多いものだからいつまでも若者気分でいるようなところもあるが、今年は数え年で三十歳、所謂而立になる。

 私は「三十にして立つ」ことが出来るようになっているのかどうか。しがない一学徒という身分からして、少なくとも経済的には全く身を立てられていないことは一旦措くにせよ、一人の人間としてはどうだろうか、ということを考える。二十二で学を志して、生まれて初めて郷里を離れ、大学院に進んだ。この古都の陋屋に起居してもう七年になる。思い起こせば楽しいことよりも苦しいことの方がずっと多かったが、少なくとも艱難辛苦に度々見舞われる中でも細々ながら勉強を続けてはきた。そうした苦境もまた自分の勉強と併せて、何かしら血肉になっていることは自ら確信出来るところではある。

 かくして私は、大学院に長く通って哲学という学問をやりながら、偶然の事情と生活苦から、大学人に似付かわしくない、夜の繁華街の仕事に身を窶してきた。そこで時には奇矯な仕事をして糊口を凌いできた。これは前にも少しだけ触れた話である。ただ、本稿では繁華街での遍歴の一々を記したい訳ではない。色々と積もる話もあるが、それはまた後々に取っておくこととしよう。ここではただ、そのようにして象牙の塔と欲望の俗界を日々往還する中で、私がずっと感じて考えてきたことを少しでも文字の上で結晶化させておきたいのである。

 言うまでもなく、大学院と繁華街というのは恐ろしく遠い所である。大学人達も勿論、繁華街へと呑みに繰り出すこともある。しかし私が個人的に見てきた所によれば、彼等の多くは飽く迄も酒席の場所としてそうした場所に来るに過ぎないようだ。

 学者という、所謂「インテリ」の世界に属する者達の中で、「夜の街を呼吸した」者は飽く迄も少数派である。しかし極々稀な機会に、学術界の中でもそうした人に出会うことがある。出会って話しただけで、何かの波長が通ずる。ここで、同じ空気を呼吸した者であるという独特の親近感が沸くのである。そういう時、この感覚は何だろうか、と少し思う。ここから少し、私が考える限りでの、夜の街の構造について話をしたい。

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