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本日の眼福 東京都現代美術館 翻訳できない わたしの言葉

昨年の「あ、共感じゃなくて。」がとても刺激的で読書会で共有したぐらいだったので、とても楽しみにしていた展覧会。これは一人ではなく誰かと見たいシリーズなので、GWひとりふたりだれか一緒に行ってくれないかなと思って、ふりかえり本の読書会メンバーに呼びかけたらなんと7名も手を挙げてくれてとおおおおおってもうれしい待ち合わせ。

昨日までADAの課題と授業でハラホレヒレハレだったので、当日の朝になって10時集合でお昼が13:30はさすがに長すぎないか( ^ω^)・・・?て気がついて、遠方の人もいるのにすみません、あと、お昼のお店もピーク時間外す気遣いはしたのだけど、予約をしたらテーブル開けて待っていないといけないからあまり意味がなかったのではという心配をはじめる。なにせ7人だ。

とはいえ、集まった後はてんでバラバラに見てたまに誰かを見つけてという感じでけっこうな通常運転。長めの動画の展示が多めだったので、すわってジーっと見るのであまりおしゃべりしている人もいない。でも全然飽きなくて、わたしはちょうどいいぐらいの時間だった。早めに見終わった人は中庭で本を読んでいたり、常設展を見たり、マイペースに過ごしたようです。放置で申し訳なかったかなとも思ったのですが、ひとりでいろいろと考える時間が必要な展示だったのでかえって良かったと言っていただいたり、楽しそうな写真が送られてきたりでいい感じでした。

やはりこのメンバーだと気になっていたのはWSDでワークショップを受けた体奏家、新井英夫さんの展示。わたしがワークショップに参加したのはそれこそ10年も前であるのですが、やはりとても印象的な時間でした。近年、よりによって体の自由が利かなくなるご病気でよりによってなぜと心配していたのです。しかし、展示会場には見るだけで参加できるとてもクリエイティブなワークショップがデザインされていて、身体が不自由になっても感性は衰えるどころか研ぎ澄まされていることを知り、みんな無邪気に遊んだ後に天井にうかんでいるアレをみつけて、じわじわ来るものがあったです。

「翻訳できない わたしの言葉」というタイトルはそれだけでなんというかもどかしさが伝わってくるのですが、展示を順に追いながら、どれもこれもエモいと思って、そのエモさとは何かを感じようとしていました。全体を通して語られているのは「越境の痛み」なのではないかと思います。

涙を拭きながら語られる喪失感や、アイデンティティを取り戻す対話や、伝える言葉を持たなかったことによるトラウマ。逆に聴覚障がい者同士の手話による語らいはとても楽しそうで手話考えた人天才だなって思ってみていた。それもエモかった。

伝わらないことで感じる痛み、痛みというのはとてもパーソナルな体験でどんなに言葉を尽くしても他者に伝えることができない孤独、喪失も共有はできない。言語が正確だから伝わるというものでもなく、そして、翻訳できない痛みを抱えながらも、違う言語を使っていても、遠くに暮らしていたとしても、それぞれはどこか似かよっていて、毎日ご飯を食べて、ベットで眠って、おしゃべりして、伝わらなさに傷つきながら暮らしている、「あ、共感じゃなくて。」でも思ったけど、だからこそこうして、呼びかけに応じてくれたり、一緒に休日にご飯を食べてくれる人がいることは尊いなって思いました。

現代美術でありながら、はじからはじまで分かりにくさを感じないのにすごく伝わる何かがあって、違うタイミング、違う人と見たらまた違うことを考えそう。またいろんな人と話したくなる展示でした。一緒に行ってくれたみなさまありがとうございました。いけなかった人もまた何かの機会に

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