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「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒」の思い出と金子修介監督のもっと語られるべきと思う演出の特徴

映画館を出た後、その時見た作品があまりにも怖すぎて、その日のご飯が喉を通らなかったことが、かつて2回ある。1回目は「プライベートライアン」。2回目は「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒」だ。

どちらも今見返すと、それはもう素晴らしい作品であり、心暖まる人間ドラマだったり、ガメラのカッコ良すぎる勇姿だったり、2作ともなんて面白い映画だろうと思う。しかし当時、映画館から出てきた私は、とてもそんな風に作品を冷静に受け止められる状態ではなかった。そこには感動も興奮もない、ただただ抗えずにバタバタと死んでいく人々の姿ばかりが目に焼きついて、心の底から恐怖した。ていうか小学生があの2本を映画館で見ることができていた時代に驚き。

それにしても、プライベートライアンはまぁ仕方ないとして、なぜ当時小学生だった私は平成VSシリーズのゴジラは平気だったのに、ガメラ3はあんなにも恐ろしかったのだろうか。

今考えると、金子修介監督の作風によるものかもしれない。平成ガメラ三部作も、それから「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」も、他の怪獣映画に比べて圧倒的に「死」の描写が怖い。ガメラ1作目のラジカセや、2の地下鉄の車掌室にぶちまけられる血、大怪獣総攻撃の病院の篠原ともえさんなどなど。金子監督のいちばん特徴的で素晴らしい演出は、実は「死」の描写なんじゃないか。なので、巧すぎて、その描写が素晴らしすぎて、小学生の私は監督の狙いどおり、いやそれ以上に恐怖した。ほんっっとうに怖かった。

そしてその「死」の描写が冴え渡り、頂点に達したのがガメラ3だと私は思う。渋谷で木葉のようにふっ飛んで行く人々、なのに泣きながら「ガメラが助けてくれたよ!」と訴える少年に対し、当時私は「その何百倍もガメラにふっ飛ばされとるわ!」と、同じく涙ながらに訴えたかった。冒頭の記憶の中のトラウマガメラも、イリス目線で村の人々を襲う場面も、夢の中の木製の猫の像も、とにかく怖くて怖くて仕方なかった。
もちろん今見返すと、その恐怖描写はとても大事な要素であり、作品に説得力をもたらしている。僕らの大好きなガメラへの信頼を揺さぶる上で、恐怖描写は絶対に必要だった。ただ、金子監督の演出が素晴らしすぎた・・・あまりにも怖かった。

金子修介監督の「死」の描写の素晴らしさについて、もっとみんなで議論すべきではないかと提案し、今日は終わりにしたいと思う。

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