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フィッシン

 あらすじ
 幼少の頃、魚と会話した。あれはたしかに。
 開発した新素材FKPEは想像を超えるポテンシャルを秘めていた。それなのに俺は、やらかしてもうた。終わった。と、思っていたらウハウハになった。FKPEサイコー!次々と契約が取れ、次々とプレゼンの依頼が来る。
 それなのに俺は、またやらかしてもうた。アッカーン。終わった。そして俺は会社を首となった。しゃーないから久々に帰省した。地元の友人との酒の席で、そいつは妙な事を言った。
「なぁ、キャサリンて覚えとる?」
居酒屋を出た俺の足は漁港へ向かった。夜釣りをしている連中が居たから、石を投げたった。どんどん海へ投げたった。オモロ。

 そして、俺が辿り着いたものは。

 フィッシン

 シングって何やんやんやんんん。フィッってててんてんんんん。お手軽にお魚釣りってか?んんん?。はん?はん?はん?はん?はん?
 阿呆陀羅が、命のなんたるかやろがて。そんならば百歩譲って、はい、鯵を釣り上げましたとさ、なんやら勝ち誇った顔ばしてから、釣ったって思っとるやん?やんやん?そんなら、その鯵の胸鰭がゆっくりと大きくなります。貴方は余裕をこいて、調子こいて、まぁまぁのサイズかなとか何とかほざいておりますと天気が急転致します。そう感じた時にはもうアウツ!天候の変化などは全くなく、先ほどと同様におてんとうさんがニカニカとしている。
「あり?さっきまで晴れとったのに、急に暗くなったぞん」
鯵はその巨大化した胸鰭で貴方を包み込んでいて、もうジャーマンスープレックスの態勢に入っている。身体を包み込むネトっとした感覚を覚えた時、脳天から海へと真っ逆さま。アーメン、ソーメン、冷ソーメンと相成る次第で御座います。真下にはテトラポットと呼ばれる消波ブロックがゴロゴロとありまして、そこへ頭蓋を打ちつけ飛び散る脳みそとその他の部位。待ち構えるは鯵の群れ。ヒャッホーと其れに群がり、うんまうんまと食い尽くす。
「それでもフィッシングなどとあんたらは言うのかぁぁ」
脇腹をトントンとされていた。していたのは穴見だ。プレゼンのサポートをやっていた穴見だった。
「あり?」
プロジェクターの脇に俺は立っていた。プロジェクターには鯖の皮が映し出されていて、俺は大事なプレゼンの最中、みたいだった。穴見を見ると、猫がチャオチュールを食べ終えたみたいな表情だった。
 社運を賭けたプレゼンということは分かっていた。環境問題、更に持続可能な開発をも取り込めるもので、フードロスと廃プラスチックの問題解決にも一役買える素材。それのプレゼンであって、我が社は、この素材を開発するのに五年の時間をかけた。ようやく商品化へ漕ぎ着け、こうしてプレゼンの機会を得たのだけど、素材の一つである鯖の皮がプロジェクターへ映し出されると、「あっ、鯖だ」と思った。そして、「青物っていいよね」となって、鯵や鰯、鯖や鰤なんかの元気に泳ぐ様が頭の中で再生され始め、俺はその世界へ引き込まれていた。【みんなのフィッシング】という番組が始まった。落ち目のお笑い芸人がMCを務めていて、アシスタントはおおよそ釣りなんて全く興味がないという感じの、売り出し途中の冴えない女の子だった。
「今日はアジングなんで、誰でも簡単に鯵を釣り上げる事が出来そうです」
大袈裟な身振り手振りでお笑い芸人が言うと、マジで冴えない女の子の目が泳ぐ。
「わたしぃぃ、おさかなこわーい」
そんなとんちんかんなやり取りを経て番組は始まった。お笑い芸人が阿呆みたいなリアクションで鯵を釣り上げた。すると先の映像になり、お笑い芸人は鯵からジャーマンスープレックスを決められテトラポットで頭蓋を砕かれた。
「それでもフィッシングなどとあんたらは言うのかぁぁぁぁ」
中くらいの会議室に俺の声が響き渡っていた。穴見に脇腹をトントンとされ、俺は我に返った。けど遅かった。そこそこ名の通った家電メーカーだった。先方へ連絡を入れた時にはもう新素材の事に興味を示していてくれて、プレゼンの日程調整は驚くほどスムーズに進みこの日を迎えていた。中くらいの会議室に居る我々二人を除く八人は、この会社の専務をはじめとする重要なポストにある人たちで、ポカンとした顔をする者、怒りの眼差しを向けている者、腕を組んでうつむいている者、ガチで寝ている者、机の下から社内に居る愛人に卑猥なメールを送る者など様々な反応を示していた。
 あかん、終わった。ここにくるまでに大変な事を乗り越えてきたのに、俺の悪い癖が出てもうた。俺は何故か考えが飛躍するというか、要らん方向へ飛ぶというかそんな癖がある。この画期的な新素材FKPEの開発に携わる事になったのも、俺の考えが飛躍したことによるものだった。勿論そこには前々から思い考えていた事があったのも事実で、青物魚の皮には何かがあるという想いは、たしか俺が中学生くらいの時から抱いていた。ただその頃は他の事にも興味があって、蟻巨大化計画、自作漫画〔つっぱり番長〕のアニメ化、カマキリの体内に宿るアレの解明、発炎筒百本同時着火、盗んだバイクで走りだす実験、ライブ@友達んちの居間などを行っていた。ライブ@友達んちの居間の時は、友達とか言いながらも実はそんなに友達でもなく、知り合い?程度の同級生の家の居間へ勝手にスネアドラムなんかを持ち込んで、それを叩きながら絶叫したものだから、その同級生はもとより家に居たお母さんや妹は恐怖のあまり警察へ通報という手段にでて、ちょっとした騒ぎとなった。
 発炎筒を百本くらい束ねて、近くの八幡神社の鳥居そばで火をつけた夜だった。「ボム」ってと、俺はちょっと面白かった。漫画なんかでダイナマイトみたいのが爆発する時、紙面の大半をBOMBという文字が占める。あの時、発炎筒に火を点けて数秒後、漫画みたいに「ボム」って音がした。
「マジでボムとかいいよる」とか思いながら眠っていた。

 幼い頃、浮き輪にお尻をすっぽりと嵌めて波を漂っていた。緩い波に揺られて楽しんでいた。不意の高波をうけ、俺は水中へひっくり返った。海の中は透明と灰色の中間みたいな感じで不思議と息苦しくはなかった。逆さになった浮き輪からお尻が外れて、俺は浅い海底付近でポカンとしていた。そこへ魚が現れ俺の身体を取り囲んでいた。
「いこう」
たしかにそう言った。魚の声だ。よし行こうと思った時に、強い力で海面へ引き上げられた。大きな手で両脇を抱えられ眩しい太陽の下へと晒された。急に呼吸がし辛くなり激しく咳き込んだ。
「ガハハハハハッ、びっくりしたやろ、水ば飲んだか?」
父ちゃんは陽気な声で俺に言った。鼻の奥がツーンとなって、そして俺は泣きだした。

 中学、高校と訳の分からない事ばかりやりながらも卒業して就職する事が出来た。入社した会社は素材の会社だった。色々な素材を開発して提供する。そういうところで、俺は営業部へ配属になった。
 専門知識も何もないのに、その会議の末席で熱弁を奮う担当者を遠目に見ていた。入社して三年が経っていた。そろそろお前もな、なんていう課長の一言で俺は会議へ出る事となり眠気と闘っていた。マイクの前で語る彼が熱く語れば語るほど、専門用語だらけのお経に聞こえる。お経はリズムを成して俺を眠りへと誘う。もう駄目、瞼を開けてらんない。眠りますよおォォォ、いいっすかぁぁぁ、フイイイイィィィィと意識はフェイドアウト。クースカピー。
 海に居た。海は広いな大きいなとかなんとか言っていると、ダッバァァァァァァァァァンつって大波が押し寄せてきた。そしてその中から立派な鰤が飛び出てきた。
「鰤やっ」
俺は大声を出していた。熱弁を奮っていた彼は言葉を止め、会議室内の目が一斉に俺を刺した。
「鰤がどうしたのかね?」
部下である彼の話を一番前の席で確認するように聞いていた開発部長が、迫力のある、でも不快さを全面に出した声をあげた。
 ヤバい、ヤバい、何言うとんねん俺?要らん事言うなっつーのって、え?あの人怒っとるよな?なぁて?って誰に聞いとんねん?鰤が屁をこきました。ブリって。とかそがん事考えんな。俺の頭の中はパニックを起こしながら高速で回転していた。グルグルグルグルグルグル。
「そう、鰤」
再びマイクロフォンからの声がした。壇上で廃プラスチックについて熱弁を奮っていた彼だ。
「その事は最後の方で補足するつもりでした。なぜならまだ確実ではないからです」
開発部長も壇上へと上がり、彼を手で制してから俺を睨みつけた。
「なぜ君は鰤の事を知っている?」
パニックを一時停止していた俺の頭がまた回転し始めた。グルグルグルグル。グルグルグルグルトゥルルルルルルルー。回転速度がトップスピードへと達した時、鰤、鯵、鯖、鰯などの青物魚たちが俺を担いでワッショイワッショイやり始めた。
「青物魚の皮は何かを秘めているんです」
俺は口から出まかせを言った。静まり返る会議室。開発部長は担当の彼と顔を見合わせながら小声で話をしているようだ。俺の頭からは湯気が立ち昇っている。担当者の代わりに開発部長がマイクの前に立った。
「話が中断してしまいましたが、端的に言えば開発部は廃プラスチックと青物魚についての調査、研究へと入りました。それは次に我が社が開発する新素材と深く関わります。あの営業部の彼が言った鰤、いや鰤だけではありません。鰯、鯵、鯖、そういった青物魚の皮に含まれている成分と廃プラスチックとが上手く融合できるかもしれません。現時点ではまだ確実ではないのですが、このままこのプロジェクトを進めていく事を本日のこの会議において承認して頂く為の報告でした」
開発部長が言い終えると、珍しく会議に参加していた常務が静かに挙手をした。すると不穏な空気感が漂ってきた。挙手している常務へ発言を促すようなジェスチャーで開発部長が優しく手のひらを広げた。とても厭そうな顔で。
「次の新素材って事だよね。廃プラスチック問題は深刻だからねぇ、これが商品化出来たなら画期的な事だよ。僕も一枚かませてもらおっかなぁ」
会議室全体が溜息をついた。慌てて開発部長は取り繕った。
「常務、お気持ちはありがたいのですが、これはまだ確実性が低いといいますか、商品化へと結びつかない可能性もありまして、はい。そこへお忙しい常務を巻き込むわけにはいかないと、はい」
常務が携わったプロジェクトは失敗するのが常だったので、開発部長はそれを阻止する必要があった。
「レレレ?あれれ?なになに?何だかさっきまでの意気込みと違くなってなくなくない?アーユーオーライ?」
常務のそれが始まった。最初に感じた不穏な空気の正体だ。
「プロジェクトは進める。当然給料も貰う。失敗するかもしれない。でもキニスンナ。そういうことを言ってるんだよね?それってヤバくない?ヤバリンコパークだよね?ヤバリンコパーク農園だよね?」
こうなると常務は更に面倒くさくなる。
「君の根拠は何?鰤の」
急に話を振られて俺はまたまたパニくり始めた。根拠ってなん?コンキョ、センキョ、キンギョ、なんでやねん。コン、コン、コン、コンプレッサー、ブウオーーンってアホか。グルグルグルグル。ここどこ?そこ?そう海の底。そうそうそうあん時、魚の声、聞いたやんけ。
「えっと俺、いやわたしは魚と会話した事がありまして」
会議室が奇怪なものを見る目で俺を馬鹿にし始めた。
「え、マジで?そうなんだぁ。それから」
常務だけが目を輝かせて食いついてきた。
「一緒に行こうと言われました」
「何処へ?」
「分かりません。行こうと思った直後に身体を海の中から引き上げられました。幼いわたしは、少しの間溺れていたみたいです」
「で?」
「それからは事あるごとに魚が頭の中に現れるようになりました。青物魚の皮には絶対に何かあると思い始めたのは中学生くらいからで」
「なんかあったの?」
「なかったっす」
「駄目じゃん」
「駄目っす。ところが本日、この場で先程の話を聞いているうちに、自分の想いが然るべき方向へと進んでいると確信して、つい興奮のあまり声が出てしまいました」
「ほう、ほっほう、なるほどね」
それから常務は腕組みをして目を瞑り小首をかしげて考え込んでいたけど、突然パッと目を見開き、腕組みを解除して左の手のひらに握りしめた右の拳をトンと打った。考えが纏まったみたいで常務は笑顔になった。それは会議室中の不安を煽った。
「あのさ、彼を開発部に入れれば良いじゃん」
春の人事異動はとっくに終わっていた。
「社長と専務には僕から話を通しておくから。いやぁ、楽しみだねぇ新素材」
そんな事を言いながら常務は会議室を出て行った。会議は次の議題に進んだけど、もう何かやっつけ仕事みたいな感じで、本年度の目標数値や売上の推移、安全確認事項などが棒読みで述べられるだけだった。

 常務の思い付きみたいな事で突然に開発部へと移動となった俺は右往左往して最初の一年を過ごした。開発部での二年目が始まり、雑用しか任せてもらえなかった俺は、あの新素材の事があまり進んでいないということを知った。当初、開発部長まで乗り出して指揮を執るような鳴り物入りのプロジェクトは、半年を過ぎたあたりで青物魚の壁みたいなものにぶち当たったみたいで、その壁を破る事が出来ずに時間だけが過ぎていき、そのうち新たなプロジェクトなんかも立ち上がり、八人居た人員は一人また一人と新プロジェクトや他の活気あるプロジェクトへと移っていき、今では三人になってしまった。しかも、そのうちの一人は今年入社した新人で、プロジェクトリーダーは一年前のあの会議で廃プラスチックについて熱弁を奮っていた舘野という男、そして俺の三人だ。この状況を考えると、開発部は最早このプロジェクトを諦めているようだった。
「舘野さん、ちょっといいですか?」
俺が話しかけても舘野は自分の席で俯いたままだ。
「青物魚の方、俺がやりますよ」
それを聞いた舘野は、急にピンと背筋を伸ばした。ただ、その目は怒りに満ちていた。
「なにがわかる?雑用しかやっていないお前に何が出来る?」
舘野が抱え込んでいる不安や不満、怒りなんかが噴出した。
「雑用のお前、何も知らない新入社員の穴見、実質このプロジェクトは俺一人に丸投げされたんだ。開発部からも会社からもこれは見放されていて、それでも廃止は告げられない。まるで自主退職を迫られているリストラ要員じゃないか」
そう言うと舘野は両手で机を激しく叩いた。
「俺、前にも言ったと思うんすけど魚の声が聞こえるというか」
「お前まだそんな事言ってんのか?」
「いや、だから青物魚の件やってみるんで」
部屋の入り口をノックする音がして、こちらが返事をする前に人が入ってきた。
「じ、常務」
舘野が低いトーンで呟いた。俺と穴見は軽く頭を下げた。
「どう?ドゥ?進んでる?」
相変わらず常務はフランクに話しかけてくる。
「ええ、まぁ、はい」
「ちょいちょい、なに?どうしたのよ、画期的な新素材なんだよね?僕むちゃくちゃ期待してんだよね、だから一年経ってどうなっているかニャーと思って見に来たんだけど。実際どのあたりまで進んでいるのヨン?」
聞かれた舘野は言葉が出なかった。
「あ、そうだ君。君は今何をやってるのん?」
突然常務から話を振られて、つい雑用です。と言いそうになったけど、舘野の顔を覗くとイヤンイヤンと言うかのように首をくねくねさせていたから、それを察した。
「常務あのですね、ようやく廃プラスチックの方は最終段階に入ったので、遂に青物魚の解析に入ります。プラスチックとは意思の疎通ができませんけど、魚は生き物なんでフフフ」
「ザッツオーライ!そうだった。君は魚とコミュニケーションがとれるんだった。楽しみだねぇ」
思わず常務とハイタッチでもやりそうな感じだった。常務は満足そうに「アデュー」なんて言いながら部屋を出ていった。舘野はぐにゃりと椅子へ崩れ落ちた。
「先輩って魚と話ができるんですか?」
そう聞いてきた穴見に向かって俺は笑顔でサムアップした。

 水族館へ通い始めて一週間が経った。水族館の中程に楕円形の大きな水槽があって、その水槽では鰯の群れが展示されていた。鰯たちは水槽の中を大群で泳いでいた。最初にこの鰯の群れを見た時はその数に圧倒されコミュニケーションをとるどころではなかったけど、通ううちに何となく意識を飛ばすことが出来てきた。そうは言っても鰯たちは泳ぎに夢中で、各々がグングングングンとかクゥオオオオオオとかフニフニフニフニみたいになっているだけだった。そんな中、群れから力弱くゆっくりと下がっていく一匹がいた。俺はその鰯に集中すると、アレ、アレレ、アレという弱い意識を感じられた。水槽の底付近まで来ると身体を横たえてしまった。念を送ってみたけど、フゥゥとなっていて目を俺に向けるのが精一杯だった。それから身体を何回か震わせて動かなくなった。
 水槽の中では相変わらず鰯たちが隊を成して泳いでいるのだけど、意識が何となくこっちを向いているように感じられた。そこで集中して意識を飛ばしてみる。その皮の事を探ろうと思った。しかし、そもそも鰯たちには皮という概念が無く、グングングングンの中にカワカワというものが紛れただけだった。
 飼育員が現れた。鰯たちの意識からカワカワは直ぐに無くなり、グングングングンも薄くなっていった。バケツから水槽へ餌が投入されると、隊列は滅茶苦茶となりその餌めがけて群がった。アグアグアグアグ、ングングングング、マニマニマニマニと餌を貪った。俺は何だか急に霧が晴れたみたいに分かった。どう表現していいのか分からないけど、こう、分かった。そうそうそう、こういう事なんだよと妙に腑に落ちた。
 会社へ帰り自分たちの部屋へ入ると、舘野と穴見が天井を見つめて放心状態だった。二人の机の上には黒焦げになったビーカーが五つ並んでいて、他にも割れて粉々になった硝子片もあった。舘野がうわのそらみたいな表情で俺を見て言った。
「魚、分かったのか?」
俺は伝えたくて伝えたくてたまらなかった。
「鰯なんすけど、分かったんすよ。えっとですね、えっと、あり?これをどう説明すればいいのか、あり?あり?」
俺は分かった事を言葉にしようと思ったけど、そう思えば思うほど相応しい表現が出来なかった。
「そうやって馬鹿にしてんだろ。なんなんだ?これ見てみ、何故か黒焦げになる。なぁ穴見よ、こっちは爆発。お前らグルか?」
「いや、違くて、本当に分かったんすよ。ただそれを言葉に出来ないというか」
「ああ、わかったわかった。もういい」
舘野は震えていた。
「舘野さん、本当に分かったんですって、あと他の青物魚とコンタクト取れば」
「うるさい、もう喋んな」
舘野は怒鳴って出て行った。横で穴見の声がした。
「マジで分かったんですか?」
「それが分かったんだよ。つか、なんで硝子割れたりしてんの?」
穴見は笑顔になって事情を説明し始めた。
「舘野さんって相当プラスチックの事を研究してて、なんですけど、その知識が邪魔をするというか、いや、わたしもちょっと攻め過ぎた感はあるんですけど、もうちょっとなんです。そこの匙加減というか、舘野さんって一歩踏み込めないというか、最終的に中途半端な量になってしまって丸焦げ。あれはですね、舘野さんがちまちまやっているのがもどかしくて、わたしがドバっと、で、バリン」
俺は何だか穴見と二人だけでもこのプロジェクトが成功するような気がしてきた。
 舘野が退職した。夏が終わろうとしていた。俺と穴見は活気づいていた。俺たちは、どんどんと進んでいた。何度も開発部長と衝突もしたし、常務は顔を出す度にチャランポランな事を言っていた。
 三年目が過ぎた頃俺に変化が出てきた。魚の言葉とはいかないまでも、考えというか、意識が明確に分かるようになってきた。俺の魚化とでも言うのか。たまに穴見が「何ですか今の?」と聞いてくる事がある。俺は頭の中で魚たちと会話をしているような、夢のような、穴見の声で我に返っても、どんな言葉を発していたのか全く思い出せない。
 次の年、遂に試作品が出来上がった。入り口をノックして部屋に入って来たのは、いつになく真剣な表情の常務だった。
「二人共、社長室まで一緒に」
常務はいつもの飄々とした雰囲気ではなかった。社長室がある最上階へと上がっていくエレベーターの中でも常務は無言だった。社長室の前に立ち、常務がドアをノックする。
「どうぞ」
中から柔らかな女性の声がした。常務がゆっくりとドアを開けて、俺と穴見を先に入れてくれた。常務はそのまま社長の傍にあるソファに居た専務の横へ腰を沈めた。俺はどうしていいのか分からなくてとりあえず頭を下げた。社長がおもむろに専務を見ると、ソファに座ったまま少しだけ前傾姿勢になった専務が口を開いた。
「丸四年ですか」
そう言って横の常務へ目をやる。常務は目を閉じたまま頷く。
「時間、」
大きな水槽に小さな熱帯魚がゆらりゆらりと泳いでいて、その水槽へ空気を運ぶエアコンプレッサーの音だけがしている。
「かかり過ぎだろ、馬鹿野郎!」
専務の罵声が部屋に響き渡り、ビクッとした穴見が後ずさる。そして急にこの社長室が映画やテレビの中のヤクザ事務所に思えてきた。社長の机の後ろに掲げてある何て書いてあるのか分からない書、金色をした置物、ワインセラー、スキンヘッドで恰幅が良く、眼光鋭い銀縁眼鏡の専務。俺たちはこれからどうなってしまうのだろう?
 専務が横に座って目を瞑っている常務の膝を左手でぺシぺシしている。
「ウッソピョン」
ソファから立ち上がりそう言ったのは、いつもの感じの常務だった。
「どう?ドゥ?ビビリンコ?いやぁメンゴメンゴ、ささ、そっちに座って」
俺と穴見は顔を見合わせて、それから勧められた向かいのソファへ腰を下ろした。
「言ったのよ、そんな事しちゃ駄目だって」社長から笑みがこぼれる。
「この専務のキャラ使わない手はないでしょ」常務は嬉しそうだ。
「これ、度がきついな」そう言って銀縁眼鏡を外した専務は可愛い目をしていた。
「出来たのね。おめでとう」社長に言われてようやく俺と穴見は事態を把握してホッとした。社長が続ける。
「ここからは会社として色々な部署が絡むことになります。マーケティングなんかも本格的になってくるので、あなた達のところへ違う部署の精鋭を三人送ります。ところでこの新素材は何と呼んでいるの?」
何と呼んでいる?は?呼んでいない。つか名前名前ネーミング、そんなもん考えとるわけないやんけ。俺の頭はまたまたグルグルグルグル回転し始めた。えーと、魚やん、やんで皮、プラスチックでエエもんやから、グルグルグルグル。フィッシュのF、皮のK、プラスチックのP、エエもんのEとかどう?って誰に聞いとんねん?
「わたしたちはこれをFKPEと呼んでいます」
穴見を見ると、へ?マジで?みたいな顔をしている。
「なにか開発者による専門用語なんでしょうね。では、商品化して発売するまでの目標期間を一年後と定めてFKPEプロジェクトを進めてください」

 翌朝、会社へ行くと穴見の周りに三人が居た。そのうちの一人は俺が営業部にいた時にいつも営業成績トップの金原さんだった。更にその横に居たのは社長の娘の笠原裕子さんだった。一体どうなっているんだ?成績トップの営業マンに社長の娘までもが関わってくるなんて、FKPEプロジェクトへの会社の期待度の高さが半端ない。残るこの人はどんな人なのだろう?
「ヤセイ」
その人はそう言った。そのひと言だけだった。背は低くて瘦せていて、もの静かそうにみえる。茶色いスラックスに白いワイシャツを着ているけどヨレヨレだ。坊主頭なので頭の形の悪さが際立っている。黒まなこと目の比重のせいか目が真っ黒に見える。年齢も全くわからない。
 俺と穴見も軽く自己紹介をして、さっそくミーティングにはいった。俺と穴見はFKPEについて一通り説明をした。それを聞き終えると金原が半笑いになっていた。
「ハハ、マジかよ。こんなのよく考え付いたな。どうりで会社は力が入っている訳だ」
笠原裕子も続く。
「最初話を聞いた時はまさかと思った。ましてあの常務が絡んでいるとなると信用できないでしょ?でも実際に目の当たりにすると凄い」
ヤセイは何も言わない。金原は手帳へ色々と書き込んで、これは大化けするぞとか、やることあり過ぎるけど気合いいれるぞなんて言って飛び出して行った。笠原裕子へはFKPEには欠かせない青物魚の皮を調達して貰う為に、社長のコネをフル活用してそれに従事して欲しいと頼んだ。
 すっと、気が抜けた。俺がやる事はひょっとしてもう終わったのかもしれなかった。穴見は最終的な調整をやっていて、金原は既に飛び回っている。笠原裕子もpcを開き、携帯電話を片手に仕事を始めている。あれ?ヤセイが居ない。ま、いっか。

 海へ行こう。俺はそう決めた。そうしたら頭が回転し始めた。グルグルグルグル。どこ行ったろ?ワッショイワッショイグルグルグルグル。海つったら日本海やろ、ザッブーン、能登半島とか?パオンパオン、哀しみ本線なんて言うしなぁ、オンオンオン、回ってるグルグルグルグル。哀しみ、ブオオオン、東京駅からやったら新潟か?コンチクチク。そこで回転が止まった。
「わっ」
俺は驚いて軽く飛び上がった。ヤセイが胸のとこに居たからだ。ヤセイが俺を見上げている。俺が抱っこしているわけでも、ヤセイが俺に捕まっているわけでもない。特に重さも感じない。同化しているというか、とり憑いているというか、どうでもいいけど気色悪い。いや、どうでもよくない。
「ちょっと、何してんの?」
ヤセイに聞いても何も言わない。ただ、はじめてヤセイの顔に笑みを見た。気色悪い。

 東京駅から連絡を入れると、穴見が変なことを言った。
「朝、あのあと柳井さんって人が来られて、遅れてすみませんでしたって頻りに謝ってましたよ」
柳井?思い当たらなかった。
「システム開発部から来たって言ってましたよ」
システム開発部と聞くと何だか辻褄が合う。待てよ、じゃ社長が言っていた三人って、金原さん、笠原裕子さんと、その柳井って人か?へ?したらヤセイは?
「今朝さ、三人来たじゃん。金原さん、笠原裕子さんとヤセイさん」
「え?今朝は二人だったじゃないですか。誰ですかヤセイさんて」
胸に居たヤセイは消えていた。
「ちょっと俺、二、三日新潟へ行って来るから。柳井さんの事は帰ってから聞くから」
「新潟ですか?何しに」
そう言いかけて、はいわかりました。と言って穴見は電話を切った。俺も何しに新潟へ行くのか分からなかった。
 新潟駅に着くと阿呆ほど雨が降っていた。人の流れに流されるまま万代口という改札口を出た。佐渡汽船という文字が目に入り、佐渡島まで行ったろという根拠のない目標が出来た。路線バスで佐渡汽船ターミナルへ。まだ雨は激しく降っている。往復の二等乗船券を購入して待合室のベンチに座っていると、胸に現れたヤセイと目が合った。
「お前、マジでなんなん?」
ヤセイに話しかけると、頭の中で除夜の鐘が鳴っているような、そんな感覚になり直後に直接脳に声がした。
「お前、マジでなんなん?」
秒で血が滾り、胸のヤセイを殴った。鈍っという音と衝撃で俺は咳き込んだ。ヤセイはまた消えていた。待合室の硝子窓の外では相変わらず雨が降り続いていた。
 午後六時半、カーフェリーは佐渡汽船両津港ターミナルへ到着した。下船してはみたものの何の計画も無い俺はターミナルの階段を降りたところで座り込んだ。
 コンビニも無いのかとそんな事を思っていると、左向こうから近付いて来るものがあった。自転車を押しながら歩いてくる年寄りだった。髪を数か所脈絡の無いところで結び、ひらひらのピンク色の布をティーシャツに巻き付けていて、ぺらっぺらのモンキーパンツを履いている。足元はビーチサンダルで自転車の前かごには釣り竿が刺さっている。はっきり言って関わりたくない。
「ヒャッ、ピャッ、ピピピ、あれぇあれれぇ」
奇怪な声を出しながら近付いてきて、自転車は完全に俺の前で停車した。
「釣れたかや?」
度の強そうな眼鏡は斜めにズレている。変な方向を見ながらハッキリと俺に聞いてきた。全く意味が分からなかった。
「釣りしたのはお前やろが?」
婆さんはそれを聞くと、アヒ、アヒアヒ、ヒャーピー、ピーピーと、また奇怪な声を出しながら自転車を押して去っていった。
 暫く婆さんの後ろ姿を眺めていると、背後に気配を感じた。振り返るとそこにヤセイが立っていた。ヤセイは何か言いたそうな顔で含み笑いをしていて殊更気色悪い。俺はムカついた。
「お前なに?霊か何かか?なんで俺んとこにきた?」
ヤセイは何も言わない。知り合いに霊感が強いヤンキーがいて、そいつが酒を飲みながらよく言っていたのは、霊とか見えたらな言うてやんねんと、そう言って追い込むのだと、俺はそれを思い出してヤセイに向かって叫んだ。
「もっかい殺すぞ、ボケっ」
そう言いながらヤセイに殴り掛かると、ヤセイはヒョイと逃げ出した。俺はヤセイを追った。殺す殺す殺す殺す殺すと唱えながら追った。ヤセイの走る速度はそんなに速くないのだけど、何故か追いつくことができなかった。ヤセイの行く先に橋が見えた。ヤセイは橋へ差し掛かるとそのまま欄干の上に立ち、躊躇することなくそのまま海へ飛び込んだ。うわマジか?と思ったのは束の間で、俺の足も止まらない。シャツの胸のところが前にビョーンと伸びている。そこにはヤセイが張り付いていて俺はヤセイに引っ張られていた。
「おい、馬鹿、止まれ、ヤセイ」
目の前に橋が迫り、そのまま欄干を越えて俺は海へ落ちた。

 そこに居たのは立派な鰤だった。海へ落ちたのに呼吸も出来ている。さっきまでのささくれ立った感情は無くなり安心感に満たされていた。
「お前ヤセイか?」
鰤は付いてこいとばかりに身体を反転させ、ゆっくりと沖へ泳ぎ始めた。俺も続く。難無く泳げた。前を行く鰤と色々な事を見た。堤防で釣りをする者、釣りあげられる魚たち、仲間が釣り上げられても撒かれた餌に夢中で気が付かない魚たち、小魚を目の当たりにすると飛びかかろうとする自分、定置網、刺網、延縄に掛かっている魚たち、操業している鮪漁船から老いた漁師が海へ落ちた。鮪にはそんな意識は無かった。力の限り抵抗したまでで、口には針が掛かったままだ。老いた漁師は、あっという間に海の奥へ引きずり込まれた。俺は咄嗟に助けなきゃと思い泳ぎ始めてから自分の異変に気が付いた。助けるってなんだ?そもそも俺の両腕は無い。足という感覚も無い。漁師が魚を獲る。じゃ魚が漁師を獲ってもおかしくない。あれ?違う?いや違わない。いつの間にか一緒にいた鰤が居ない。説明のつかない感情が頭の中を廻り始めて、それからどうでも良くなっていった。

 朝になっていた。浅場まで来ていて、両手をつくと砂地だった。身体が重い。どうにか四つん這いで波打ち際まで這っていき、倒れ込んだ。
 目を覚ますと視線の先にカラフルなパラソルが見えた。昨日、佐渡島へ来たところまでは、まぁ良いとしてそれから変な婆さんが現れて訳の分からない事を言った。そのあとヤセイがいて、追いかけたら海へ飛び込んで、俺の胸んとこにまたヤセイがいて、それに引っ張られて俺も海へ。考えれば考える程分からなくなる。立ち上がるとフラフラするもののどうにか歩ける。そうして歩いているとパラソルの正体が分かった。
 車道と歩道の間には幅三十センチ程の側溝があって、所々コンクリート製の蓋が無いところがある。天気が良い為か側溝の中はカラカラだ。その側溝へ釣り糸を垂れ、パラソルの下でレジャー用の折り畳み式椅子に座っている婆さんがこっちを見ている。あの婆さんだ。今日も独特のファッションをしている。
「釣れるかや?」
釣れるかって、釣りをしているのは婆ぁ、お前だ。
「お前がな」
俺が言うと婆さんは奇声を出し始めた。キイエエエ、キョエエエ、ァァァァァァ、フンフン。どんどんと声のヴォリュームが上がっていく。アーゴン、マーゴン、ラーゴン、ダー。そしてクライマックスを迎えるようなキイエエエエエエという祈禱師が最後に叫ぶような雄たけびをあげ、竿を上げると鯵が一匹釣れた。水っ気のないカラカラの側溝で鯵が釣れた。それはもう腐りかけていて悪臭を放っていた。釣り上げた鯵を俺に見せニッカっと笑う。婆さんの足元にはスーパーで買ってきたと思われる白いトレイの上に鯵が数匹あった。婆さんはそこから鯵を針に付けて、また側溝へ釣り糸を垂れた。
「キャサリィィィン」
口々にそう言いながらお子たちが寄ってきた。俺はそれが誰のことか分からなかったけど、キャサリンは婆さんで間違いなかった。
「キャサリン釣れるかや?」
お子のひとりが婆さんに言うと、婆ぁはまた奇声を発しだした。キイエエエ、キョエエエ、マンデンモン、サルササルサノンピッピそれから徐に竿を上げると何も掛かっていなかった。付けた筈の鯵は無くなっていた。婆ぁは、あれ?アレレレ?と言いながら側溝の中を確認した。
「あ、キャニ」
それを聞いたお子2人が側溝を覗く。
「蟹が魚を持って行きよう」
ひとりがそういうと次々と側溝へ頭を入れた。
「ほんとや、蟹が魚を持って行きよう」「キャハハハ、キャサリン蟹に魚を盗られよう」「あらららら」
そう言って婆ぁを冷やかした。俺は歩き始めた。すると背中からしっかりとした低い声がした。
「魚になれたのか?」
婆ぁの声ともお子たちの声とも違っていた。
「キャサリン、何言うてんの?魚になれるわけないぞ」
お子のひとりが言った。キャサリンは、婆ぁは、あははは、キイエエエ、モンゴモンゴ、フィフィーと元の感じになっていた。

 佐渡汽船両津ターミナルへ着いてから穴見へ電話してみた。すると時間軸が変なことになっていった。
「ちょっと、今どこですか?何やってんですか?」
「いや、ちょっと、昨日連絡したよね?二、三日新潟行くって」
「もうそれから一週間ですよ、今どこに居るんですか?」
「え?一週間?噓やろ、今どこって、佐渡汽船」
「佐渡汽船って何ですか?」
「だから佐渡島」
「え?佐渡おけさの?」
「まぁそうなのかな、佐渡島」
「今から帰るから」
電話を切ってからも不思議だった。俺、昨日来たんだよな?そんな事を思いながら帰りのフェリーを待っていると聞きなれた声がして嫌な気持ちになった。
「新潟よおおし、両津もよおおし、今見た?見たでしょ?きゃははは」
キャサリンだった。
「あんたはオッケー、あんたもオッケー、あんたは、きゃははは駄目ぇぇ」
待合室にキャサリンの声が響いていた。不思議そうにそれを見ている者、見ないように努力している者、指を指して面白がっている者、待合室にいた観光客たちはそんな感じだったのだけど、見送りや出迎えに来た地元の人、佐渡汽船の職員なんかにとっては、最早キャサリンは日常茶飯事みたいだった。
「あんた何見てんの?アレレ、アレレレ、あんた魚」
ちょっとキャサリンと目が合うと俺を指さしながら近付いて来た。最悪だ。すると、入口付近の柱を指差して俺に言った。
「あれは置いていくんだろ?」
驚くほど落ち着いた声で深みがあった。キャサリンが指さす方を見ると、柱の脇にヤセイが立っていた。ヤセイから再びキャサリンへ視線を戻すと、鼻の上で眼鏡がズレ、歯が所々欠け、右手に釣竿を持ったキャサリンが白目を剝いていて、口から泡を吹いていた。
「おい、婆さん大丈夫か?」
俺の言うとキャサリンは何度かビクッビクッと震えてから意識が戻ったみたいだけど、目の焦点は会っていない。それから急に変な踊りみたいな動きをしながら歌い始めた。
「ピャピャピャ、ヒュウゥゥン、チロッ、チロッ、チロテロ、チロチロテロテロ、チロテロ」
蟹股でステップを踏みながら、両腕を交合に激しく振っている。右手に持った釣竿が大きく左右に撓って踊り辛そうだ。
「サイハー、トイハー、ニッチョロメ、チョロ、チロッ、ニッチョロメ、チロッ、チョロ、サイハー、ニッチョロメ」
キャサリンの動きはどんどん激しくなっていって何だか残像まで見え始めた。声のヴォリュームも大きくなって、まるで二人で歌っているみたいに感じる。次にキャサリンはトコトコと小刻みに足を動かしながら回りだした。すると少しずつキャサリンの背の面が現れた。残像だと思っていたそれはヤセイだった。ヤセイはキャサリンとピッタリ背中合わせになって動いていた。
「キャン!」
キャサリンとヤセイの声がひと際大きく響き、動きがピタッと止まった。それを見ていた観光客たちは拍手と歓声を送った。観光客たちは郷土芸能かなんかと勘違いしている。その拍手に応えるようにキャサリンとヤセイは深々と頭を下げた。気色悪かった。それからキャサリンとヤセイは手をつないで待合室を後にした。それを見ていた俺は、一度だけ振り返ったキャサリンと目が合ったような気がした。気色悪かった。只、あの婆さん何かが引っかかる。その何かは全く分からないけど。

 打ちあがった花火が綺麗に割れて、中から満面の笑みで猫が現れた。次々と打ちあがる花火。ドッカーンと割れる毎に、鯵、鯖、鰯、鰤なんかが飛び出てくる。今度のやつは四尺玉だ。ひと際大きな音がして出てきたのは穴見の顔だった。笑顔の穴見はどんどん膨らんでいって弾けて星になって降り注いだ。十二、三匹の猫が一列になって二足歩行で近付いてくる。俺の前まで来ると、俺を中心にして円になり盆踊りが始まった。猫たちは口々に「おめでとう」と言っているみたいだったけど、実際には「ニャーニャー」と鳴いていた。穴見をはじめ、金原、笠原裕子、柳井の四人も猫たちの輪に入って踊る。「きゃははは」という声がして手を握り合ったキャサリンとヤセイもやって来た。みんな笑顔だった。
「遂に完成したね」
その声で目が覚めた。声の主は常務だった。さっきまで打ちあがっていた花火も、盆踊りをする猫たちも、プロジェクトのみんなも、キャサリンとヤセイも消えていた。そう遂にFKPEは完成したのだ。完成の一報を聞いて常務は直ぐに駆けつけた。
「出来たじゃん」
「出来たっす」
「じゃったじゃん」
「じゃったっす」
「じゃんじゃかじゃん」
「じゃかじゃかっす」
俺と常務は、じゃかじゃか言いながら喜びを分かち合った。金原のマーケティング能力は群を抜いていた。そこへ柳井の頭脳とシステムが加わり、笠原裕子も積極的に仕事をした。俺と穴見も完璧に融合してFKPEは完成した。来週頭には最初にプレゼンをやる会社も決まっている。そこそこ名の通った家電メーカーだった。只、俺は何というか、自分の感覚というか、意識というか、魚への想いというか、そういうものがちょっと変化してきたような、上手く説明出来ないけど、俺の魚化みたいなものが進んでいるような変な感覚を覚えていた。そんな中、穴見と二人で最初のプレゼンへと向かった。

 静まり返る、中くらいの会議室。穴見は直ぐにプロジェクターを操作して、資料を次のものへ入れ替えた。
「大変失礼いたしました」
穴見は深々と頭を下げ、俺もそうした。それからあとのプレゼンは穴見が行い、俺はプロジェクターの操作に専念した。専念したのだけど、魚の皮のくだりになると、どうしても青物魚の写真がプロジェクターへ映し出されて、その度に俺は光悦の表情を浮かべてそれを眺めていて、穴見が話をしている内容へ資料の写真やグラフ、数値表なんかが遅れてしまい、穴見が寄って来ては俺の脇腹をどついた。結構強めに。
「本日はありがとうございました。どうか前向きのご検討をお願い致します」
穴見が立派な挨拶をして二人で頭を下げ、プレゼンは終了した。最寄りの駅まで二人共無言だった。俺は完全にやらかしてしまったと意気消沈した。

 「え?」
俺は常務が何を言ったのか分からなかった。常務は続けた。
「先方から十年契約の申し入れがありました」
「マジっすか?」
「マジです」
社長室で俺は穴見と顔を見合わせた。社長がいて、専務と常務もいる。社長のうしろには笠原裕子も立っている。社長が笑みを浮かべてから口を開いた。
「やりましたね」
「は、はい」
訳も分からず俺は返事をした。
 FKPEはヤバかった。開発した俺たちの予想を上回る反響だ。あ、そんな事にも流用できるのかと、逆に気付かされるケースもあるくらいで、プレゼンの依頼は後を絶たなかった。あれからは穴見と笠原裕子二人がプレゼンの担当となった。若い女性二人で行うプレゼンは先方に受けが良かったし、何よりもFKPEのポテンシャルがヤバリンコパーク農園インフェルノだった。
 そんな中、学生が立ち上げたというベンチャー企業からプレゼンの依頼が入った。あんなことを仕出かしたから、プレゼンは穴見と笠原裕子が担当していたのだけど、今回はどうしても自分が携わらないといけないと強く思った。
 その会社は小綺麗なマンションの一室だった。広くはないけど白で統一された清潔感のある部屋へと通された。シンプルな部屋ながら、掃き出し窓からは太陽の光が良く入って来る。サッシ脇には少し背の高い観葉植物がすました顔つきで佇んでいる。六人掛けのテーブルも椅子も白色だ。
 部屋を仕切るパーティションの奥から三人の若者が入ってきた。淡い茶色のチノパンに水色のジャケットを羽織り、ローファーを素足で履いている。緩いパーマのかかった髪は、何とかという俳優みたいだ。口髭を蓄え黒縁眼鏡をかけている。この青年が代表なのだろう。他の二人は、灰色のスエット上下を着た金髪の坊主頭と、ブラックジーンズにデスメタルバンドのロゴが入ったティーシャツを着た長髪の男だ。
「お待ちしておりました。ようこそおいで下さいました」
そう言って名刺を差し出したのは、灰色のスエットを着た金髪坊主だった。人は見かけによらない。正にその通りだ。
「それでは早速商品の説明へと移らさせてもらいます」
穴見が挨拶をしてプレゼンは始まった。俺は穴見のサポートにまわり、パソコンの操作やタイミングを見計らって資料を配った。質問なんかにも答えながらFKPEについて説明した。話を聞き終えた三人の表情は少し興奮しているようだった。金髪坊主が口火を切った。
「素晴らしい素材ですね。今までの御社の素材とは全く違うもので、私たちの製品にも流用出来ますし、廃プラスチックのリサイクルとフードロスの問題にまで貢献されているなんて」
次に話し始めたのはデスメタルだ。
「僕らは釣具の開発と商品化をやっているんですけど」
そうだった。俺がこのプレゼンに行こうと思ったのはそれだった。デスメタルは続ける。
「ルアーってわかります?疑似餌です。もう結構出尽くしていて、色々なものが出回っていて、魚もスレてくるんですよ。新しい素材となった時このFKPEはピッタリだと思いました」
スレる?スレてくるってなんだ?俺の頭がゆっくりと動き始めた。チノパンジャケットも口を開いた。
「俺らツイてたんすよ。ベンチャーやろうつって、何やる?なんて言ってる時、釣りブーム来んじゃね?なんてなって、釣りガールなんてのも出てきて、YouTubeなんかでも釣りのチャンネル増えて、じゃつって始めたコレがヒットして、なら次の新製品って時にこのFKPE?これ来て」
グルグルグルグル、ルルルルルルル、トゥルルルルルル、キィィィィーィィィィンンン。
「別に何でも良かったんすよ。魚とかどうでもいいし、ハハハ」
ドゥン。小さな音を立てて俺の頭の回転が止まった。
「ダメ、駄目ですよ」
穴見が何か言ったみたいだったけど、良く聞こえなかった。直後に俺は目の前の白いテーブルを叩き割っていた。どうやって壊したのか定かではない。
「なに?なにやってんの?」
金髪坊主の顔色が徐々に変わっていく。
「あんたいきなり何やってんの?あ?なにしてくれとんだ?コラ」
口ぶりが全然違う。これが本当の声なんだろうと思った。
「舐めんじゃねぇぞ」
そう叫んで金髪坊主が殴りかかってきた。俺は拳を額で受けて、そのまま金髪坊主の顔面に頭突きした。鼻が潰れ、白で統一された部屋に鮮血が飛び散った。他の二人は身動きも出来ない。
 「何だと思っとんじゃ、ボケが」
俺は絶叫しながら到着した警察車両へ押し込まれた。

 当然、俺は会社を首になった。後で穴見から教えてもらったのは、あのベンチャー企業とも契約が取れたらしくて、俺が警察から解放されたのも、先方が訴えを取り下げたかららしい。結局あいつらの金儲けの為にFKPEは使われる。FKPEは完成したのだから会社でも俺は用済みだ。FKPEはもう俺の手を離れて先へ行ってしまった。
 
 久々に帰省した。お盆の時期でもなく、年末年始でも大型連休でもない、至って普通の、通常通りの日常に突然実家へ帰った。久しぶりの実家は、もう何か俺の家じゃなかった。たしかにここで育ったのだけど、此処に居場所は無いと思った。父ちゃん母ちゃんとちょっと会話をしただけでお腹一杯になった。たまらず何人かの同級生に電話をすると、中学の時に一緒に発炎筒を爆発させた誠也と連絡がついたから飲みに行くことにした。
 誠也はこの居酒屋の常連みたいだったけど、俺がこっちに居た時にはまだ無かった店だ。お互いの近況報告なんかが一段落した時だった。
「キャサリンて、覚えとるか?」
誠也が変な事を口にした。誠也が何で佐渡島の、あの婆ぁの事を知っているのか訳が分からなかった。
「小学一年の時、俺らの担任になった、ほれ沖縄から来た、あの先生」

 入学式が始まる前、俺たち新入生は緊張しながら教室に居た。今覚えたばかりの自分の席で、落ち着かずに周りをキョロキョロ見ていた。教室入口の白い扉が横にスライドして、がっちりとした体格の女の人が入って来て、何も言わず直ぐに黒板へ向かった。その人が文字を書き終え前を向くと黒板に、喜屋武伽沙と書いてあった。
「ハイサイ、皆さんおはようございます」
女の人が挨拶したけど、疎らに「おはようございます」と聞こえるばかりで、殆どの生徒はキョトンとしていた。
「ハイサイって何や?」「知らん」「ハイサイげな」「ハイサイて言うた?」「白菜やろ」
そんな事を言いながらざわついていた。
「アレレレ?一年生にもなって挨拶も出来ないさ?」
その女の人の喋り方は聞いた事もない変なイントネーションだった。それを真似て誰かが言った。
「挨拶も出来ないさぁぁぁ?」
教室中が笑いに包まれる。
「静かにしろ!」
野太い怒鳴り声に一瞬で教室が静まり返る。
「はい。では始めようね。今日から一年間、皆さんの担任をやることになりました。キャンキャサと言います。よろしくお願いします」
また教室がざわつき始める。
「キャンって?」「キャンってなん?」「キャサげな」「キャサ?」
「はいはいはい静かにする。先生は一週間前に沖縄から来ました。喜屋武と書いてキャンと読みます。沖縄ではポピュラーな苗字です」
「キャン先生て、言いにくかぁ」「キャサ先生もたい」「キャンキャサ先生て」
そして先生はとんでもないことを言い始めた。
「沖縄の学校の時は、喜屋武っていう苗字はそんなに珍しくなかったさぁ。でも同じ学校に喜屋武先生って三人くらい居て、紛らわしいからさぁ
下の名前で呼ぶんだけど、わたしはキャサだからさ、キャサ先生なんて言い辛いから、キャサリンって呼ばれてたさぁ」
五十過ぎの、体格の良い、至って健康そうなこのオバサンをキャサリンと呼ぶのには抵抗があった。それなのに三日もするとみんな「キャサリン」とか「キャサリン先生」とか呼ぶようになった。
 それから暫く経った国語だか道徳だかの授業だった。その日の課題は〔大きくなったら何になる?将来の夢〕というものだった。それを出席番号順に発表していく。
「大きくなったら警察官になりたいです」
「どうして?」キャサリンが聞くと、
「悪い奴を捕まえたいから」
大きな声で答えたのに、キャサリンは何だか納得がいかない表情でその子を睨んでいるようだった。
「野球選手になる」「消防車に乗る」「お店屋さん」「お嫁さんになる」次々と発表は続く。俺の番が来た。俺は本気だった。俺はキャサリンの目をしっかりと見て発表した。
「大きくなったら魚になる」
「魚にはなれんばい」そんなちゃちゃが入ったけど、そんな事はどうでも良かった。キャサリンは矢鱈と度が強そうな眼鏡の奥から俺を見ていて、ひと言「そうか」と言った。俺の次の奴は俺の真似をしたのか、ふざけて「恐竜になる」なんて言ったけど、白けた場の空気を読んだのか、直ぐに次の奴と交代していた。

 「もう一軒行くか?」
俺は誠也に聞いてみたけど、誠也は大分酔っているみたいだった。
「明日も仕事やけん帰るわ」
そう言って金も払わずに店を出て行った。しょうがないから俺が勘定を済ませる。居酒屋を出て夜風にあたると、このまま実家に帰ってもなぁって思ってしまって、歩いて十分ほどのとこにある漁港を目指した。さっきまで心地よく感じていた風が妙に纏わりつくような気がした。低気圧が近付いているのか生温かい風になってきた。漁港へ着くと夜釣りをしている数人が居た。俺は石を拾う。
「釣れますか」なんて言いながら一番近くで釣り糸を垂れているおじさんへ近付く。振り向いたおじさんは面倒くさそうな顔をして、また視線を竿先へと戻した。俺は笑っていた。オモロ。俺はおじさんが見ている浮きを目がけて石を投げた。ポスンという音がしておじさんが振り返る。俺はまた石を拾ってその隣のやつのとこにも投げ込む。笑いが止まらない。オモロ。石を拾っては投げる。そこいらに居た釣り人が俺に寄ってくる。笑いが止まらない。オモロ。
「釣られてたまるか、ボケが」
どんどん石を投げる。怒りの目をして詰め寄って来る釣り人たち。笑いが止まらない。オモロ。俺は余裕だった。馬鹿どもが。俺はそのまま堤防から海へ飛び込んだ。
 身体が軽い。気分が良い。意識が、意識ってなんだ?先へ、先へ、先へ、行く、行く、行く。最後に頭で言葉が鳴った。
「魚になれたか?」

 俺はもう、俺でないものになっていく。

                    〈了〉


#創作大賞2023 #お仕事小説部門

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