そら豆のスープ

「あれはそら豆のスープじゃなかった」
 父がそんなことを言い出したのは、特にどうということもない朝食の席でのことだった。だから私はそれが正確に何月何日だったかを覚えていない。
何のことかと不思議そうな顔をする私たちの前で、父はもう一度、あれはそら豆のスープじゃなかった、と繰り返すと、庭の花のことに話題を移してしまったので、私も母も一体何の話だったのかと聞き返すことはなかった。なんだったんだろうと思いながら新聞を取りに出ると、隣家の父親がいた。
「ああ、おはよう、あれはそら豆のスープじゃなかったよ」
 かけられた言葉に私は困惑して言葉を失った。不安な空気を抱えたまま迎えた夕食の席でも父は同じ言葉を口にし、翌日からはそれがさらに多くなっていった。
 一週間ほどたった頃、わけの分からぬ事態にずっと気をもんでいた母が、父の言葉に対し、それがごく自然なことでもあるように、そうねあれはそら豆のスープじゃなかったわね、と応対しているのを聞いた時には慄然とした。
 いつの間にかそら豆のスープの話は町中に広がっていた。大人たちはバスを待ちながら、老人たちは犬の散歩をしながら、子どもたちは野原でキャッチボールをしながら、あれはそら豆のスープではなかったという話をしていた。いつのそら豆のスープなのか、そら豆のスープでなければ何だったのか、何のためにそれを繰り返し確認するのかなどは一切口にせずに。私はもう気味が悪いという段階を通り越し、ひたすら恐ろしかった。
 そして、家族に対して「そのくだらない話をするのをやめろ」と日夜怒っていた隣家の幼なじみまでそら豆のスープの話をし始めたその日、私は鞄に詰め込めるだけの荷物を詰め込むと家を飛び出した。戸口のところに立っていた父はこちらを見ると真剣そうな顔で尋ねてきた。
「あれはそら豆のスープではなかったよな?」
 私は答えず、坂道を振り返らずに駆けおりて船着き場へと向かった。
 それから五年の時が過ぎたが、私は一度も郷里に帰っていない。最初の頃は、あの町から全世界へと悪疫のようにそら豆のスープの話が広まっていくではないか――最悪、私がその感染源になるのではないかと恐れていたが、その兆候はなかった。あれは一種の風土病、あの土地にだけとりつくものだったのだろう。
 それでも、今なお私は、自分の隣に普通に座っている相手がふとそら豆のスープのことを言い出すのではないかと怯えながら暮らしている。

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