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勉強ができるかより、賢いとずる賢さが重要

教育をしていて思うことは、勉強ができるかどうかというのは社会人になってから、重要度が一気に下がっていくというところです。

大学だったら優秀だった方々も、仕事という戦場に駆り出されると必ずしも活躍できない人が多いです。

それは、勉強のようにルール通りに行くことばかりではないという実態があるからだと思います。

ましてや、答えがない、ということも日常茶飯事です。

中にはルールを破ってくる人もいますし、いかんせん仕事で接するのは非論理的極まりないヒトです。

勉強(つまり正解かどうか)にばかりフォーカスを当てていても活躍するのは困難になります。

賢さ


勉強ができる、という能力値の評価が下がってくる中で、相対的に重要な意味を持つのが、賢さ、です。

賢さ、は自分が置かれた環境を客観的に理解して、そこにある要素を利用して、自分が意図する方向に動かせる力だと、僕は思います。

職場であれば、同僚や先輩後輩がいます。
家庭であれば、パートナーや両親・兄弟・子どもなどがいます。

更に目線を広げていけば、競合相手がいたりと、考えないと行けない要素はとてつもなく多いことがわかります。

また、仕事では正しさは前提条件であり、その上で価値を生み出せるかどうかが大事です。

この価値に向かって動いていくという力を「賢さ」と僕は定義しています。
だからとても曖昧で抽象的な概念です。

ずる賢さ


もう一つ大事な要素であると思うのは、ずる賢さ、です。
賢さというのはどちらかというとスマートなもので、ずる賢さはもう少しダーティなものです。

一生懸命努力しているとして、それを周囲に示すことが効果的な場合ももちろんありますが、周囲が競争相手である場合、自分の努力を悟らせないということも自分が生み出す価値を高めるために有効な場合があります。

ダーティばかりではいけないとは思いますが、これくらいの執着心は必要だと思うのです。

どうやったら自分の価値は高まるか、そこに徹底的にコミットメントをしていれば、自ずとこのずる賢さは身についてくるものだと思います。

勉強ができる、は不要なのか


結論から言えば、超必要、というのが僕の意見です。

勉強ができる、ということで得られる切符は思っているよりも多いですし、
勉強ができる、という個性に全振りして、個性にしている人たちもたくさんいます。

勉強ができるがマイナスになることはないと思います。

問題となるのは、なんとなく勉強ができるだけの人間、だと思います。

僕は子どもたちには、自分が好きだ、と思うことを突き詰めていける突破力と、社会の中でいろいろと学べる吸収力を身に着けてほしいと思っています。

自分ができていないことも多く、自分のことは高い高い棚の上ですが、
まだまだ30代。これからの僕に期待しながら、僕自身も突破力と吸収力を体得していければと思っています。



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