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「がんばろう 日本!国民協議会」第21回埼玉読者会(R3.11月)

これは、「がんばろう 日本!国民協議会(http://www.ganbarou-nippon.ne.jp/)の機関紙、「日本再生」の読者が毎月行っている読者会のうち、埼玉の会の報告です。

「今回のテーマ」
① あなたは、衆議院選挙、市長選挙で何をどう回りに話しましたか。
② 結果野党は、惨敗しましたが、来年の参議院選挙、統地方選挙に向けて、誰をど
の様に組織化しますか。
③ 自分にとって凡庸の悪とはどの様な事ですか。

【SUMMARY】
例えばヘイトスピーチや人種差別意識を先導するネットの書き込み。それに「深く考えずに」賛同する普通の人々。私たちの周囲は多くの「悪」が存在します。しかしその多くは平凡で、ふつうに穏やかで、おとなしい人の悪行であり、それゆえに決定的な悪人のそれよりも根深く、悪質です。私たちにとって凡庸の悪とは何でしょうか。

現代における「凡庸の悪」


ユダヤ人の政治哲学者ハンナ=アーレントは、ユダヤ人を強制収容所に移送する実務を担ったナチスドイツの役人、アイヒマンが屈強な戦士でも、狂信的な反ユダヤ主義者でもない、どこにでもいる「普通の人」だったことから、彼の非道的な任務への従順さに対して、「凡庸の悪」という評価をしています。これは、ヒトラーからの粛清を恐れた結果であったり、彼自身が残虐な人間であったりということではなく、自分の仕事が結果として何をもたらすか深く考えなかった、彼の想像力の欠如を指しています。
私たちは「善と悪」を行動の両極にあるようにとらえていますが、それは違うのかもしれません。善と悪はあいまいな境界をもちながら連続しているグラデーションのようなもので、私たちの行動は、その間をふわふわと行き来しています。だから意識の持ちようで、簡単に流されてしまうのだと思います。深い意図から大きな悪が生まれるのではなく、普通の行動をとっているつもりで大きな悪を引き起こしてしまう。凡庸の悪について書かれている彼女の著作のタイトルは「エルサレムのアイヒマン」で、その副題は「悪の陳腐さ」なのです。陳腐とは「ありふれていてつまらないこと」、つまり、悪は私たちの誰でもが犯しうる普通のことなのです。
先日子育て世帯への臨時特別給付金を現金にするかクーポンにするかについて多くの自治体で議論がなされました。決定までの過程は、できるだけ速く、低コストで支給したい、現金がほしい、という思いと要望に流されたように感じました。10万円を配ることが悪いのではありません。方法をどうするかという話の前に、子育て支援に特化するのか、経済循環も視野に入れるのかという議論なしに「ただ良いことだから」という結論を出すこと。結果が同じであっても、これは凡庸の悪の例となります。
つまり、この凡庸の悪という言葉は戦時中という非常時にとどまらず、いつ、どんな時代でも起こりうる普遍的な人間の性を表しているのです。他にも今回の選挙の投票率の低さ。国会議員の文書通信交通滞在費の問題、緊急事態宣言解除後の私たちのコロナ感染への意識の変化。日々の暮らしの中で、いったい私たちはどれほどの凡庸の悪と出会っているのでしょうか

1人で答えを出すことの怖さ


凡庸の悪はまた、多数の「無責任な行動」が起こす統治機構へも影響します。何かの課題に対して勇気を持って立ち上がった人たちが社会を変えるムーブメントを起こしていくわけですが、一緒に立ち上がっている「ふり」の人たち(凡庸の悪)の基準を持たない判断からくる行動が統制を崩し、目的を達成できないことはよくある事です。「アドバイス」という体で様々な意見を述べ、協力をにおわせていた人が、「ではあなたがやってください」と言われた途端にその場から退くという経験は誰もが持っているのではないでしょうか。他者と協力して何か一つの目的に向かうことの難しさは、ここにあります。どんなに崇高な理想を掲げても、どんなに緻密なマニュアルを作っても、人は思うように動きませんし、思う通りの結果を得ることはできません。
何か行動を起こすときの判断は、最終的には自分で行うものですが、その決断に至るまでのプロセスを1人で行うということは、結局思考していない(自己完結)と変わりません。また、1人で行う決断は、その後の振り返りができず、説明ができないため、結局次に生かすことが出来ない場合が多くあります。だからこそ物事を進めていくための判断の基準を共通認識として持つことが一番大切で、そして一番難しいことなのです。


他者との対話を通じて自己と向き合う


凡庸の悪の形は様々で、だからこそ私たちはみなそこに陥る可能性があるのですが、共通して言えることは、「自分を持っていない」「自己との対話ができていない」場合に発現するということです。自己との対話というと、前述の、決断までのプロセスを1人で行わないという点と矛盾するように思えますが、自己との対話は1人で行うものだけではありません。他者と交わり、対話をするなかで自分の立ち位置や考え方の傾向を認識することは、客観的に自分をとらえることになります。他人との境界線で自らを形作れば、善と悪が入り混じったいびつな自分が見えてくるのではないでしょうか。
凡庸の悪はいつでも身の内にある。そのうえ流されやすいものであるとすれば、常に自身にそのことを問う環境が必要です。それがつまり対話であり、その対話を絶えず行える場所としてコモンズの形成が今後必要不可欠なものになるのです。

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