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「がんばろう 日本!国民協議会」第14回埼玉読者会(R3.3月)

これは、「がんばろう 日本!国民協議会(http://www.ganbarou-nippon.ne.jp/)の機関紙、「日本再生」の読者が毎月行っている読者会のうち、埼玉の会の報告です。

「今回のテーマ
① “自分活躍”のための消費活動とは何か。 
② 人権民主主義で「いのちとくらし」を検証するとは。 
③ フォロワーシップとリーダーシップの関係性

【SUMMARY】
“自分活躍”で得られるものは何でしょうか。地位や名声、刹那的な満足感。これらはみな持続可能なものではありません。市民ひとりひとりが主体性を持ち、自分の生きる社会と関わっていくためには、表面的な「やっている感」ではなく、互いに方向性を示しあい支えあう、リーダーでありフォロアーである関係性の構築が不可欠でしょう。その関係こそが、望ましい次の社会をつくりあげていく礎になるのです。

リーダーがカリスマでなくても進む社会

近年、フォロアーシップという言葉が聞かれるようになりました。私たちの考えるフォロアーは、集団の目的達成に向けてリーダーを補助していくものではありません。
そもそもリーダーを「上に立ち、物事を決める立場」、フォロアーを「リーダーの指示に従い、実際に動く立場」という縦の関係だけで考えてしまうことが「指示待ち」「思考停止」を生み出し、「上位下達」「多数決の合意形成」という物事の進め方が横行する結果になると思われます。フォロアーとは補助ではなく、支えることです。支えるためにはリーダー同様に目的を理解し、連携を保ちながらも自発的に動くことが求められます。一方のリーダーも、集団を俯瞰的に見渡し、全体を引っ張るというリーダーシップと同時に、集団をまとめ、円滑に物事が進むような場づくりをしたり、見守ったりする行為として「支える」というフォロアーシップが求められます。1人の圧倒的なカリスマのもとに人々が集うのではなく、誰もがフォロアーであり、時としてリーダーになりうる社会を目指すために、私たちはどう行動すれば良いのでしょう?

ボランティアって“やってる”感?

この、リーダーとフォロアーの関係は、市民活動の現場でも見受けられます。誰かがおぜん立てをした選択肢の中から自分がやりたいことを選ぶ、「傍目で見ているだけのボランティア」は、あくまで「ボランティアをしている自分」という自分活躍への満足でしかありません。例えば子ども食堂の企画・準備やコロナ禍での学校ボランティアの活動の再開や新しい形式の事業の立ち上げなどは、どうしても少数の運営者達が物事を決め、当日のボランティアを協力者にお願いをするという形式になりがちです。そうなると依頼する側も遠慮が伴い、そのことがより溝を作り出していきます。「協力」ではなく、皆が「主体」となる、望ましい市民活動を行うには、活動の目的と全体の流れを把握し、自分で動く範囲を決め、活動に関して気づいたことは正直に話し合える関係を作り出すことが大切です。これには大変時間がかかりますが、「集団をつくりあげる」という意味で、リーダーとは最高のフォロアーであることが求められるのではないでしょうか。

51%の合意には多様性がキーワード

目的を共有していたとしても、人々の意見は分かれます。理解の浅い深いもありますし、立場や視点、世代の違いなどもあります。物事を進めるうえでは話し合いによる合意が必要ですが、合意を得るためにはお互いが「100%ではないけれど、理解はできるので受け入れられる」と納得する状況を作り出さなければなりません。最終的な判断を多数決という行為で行ったとしても、その「多数」とは同一の意見が51%以上で、その他が全く別の意見となることでは、決してないのです。話し合いの中で合意できる点はどこなのか、合意できない点は何なのかという仕分け作業は、お互いの価値観を受け入れあう、対等な関係があるからこそ成り立ちます。それが「多様性」を受け入れるということではないでしょうか。
今、多様性に関する発言の多くは、「普通」と言われる、「マジョリティ」な見解を持つ人々が、「マイノリティ」の気持ちも理解しようという、数の上での安心感からくる平等論として展開されているようにみうけられます。それは何とかしてあげなければならないという「施し」の枠内での仲良しごっこでしかありえません。
多様性を受け入れる社会とは、相手に対して違和感があるならば、その違和感をお互いに自覚しながら良好なコミュニケーションが取れる社会ではないでしょうか。違和感を無理になくす必要はありません。でも、相手も同様に自分に違和感を持つのだということを忘れてはいけません。相手の置かれる環境や人格、思想を攻撃するということは、自分の主義主張、生き方も受け入れられなくなるということです。自分ではない誰かが生きやすい社会は、自分にとっても生きやすい社会です。まさに「人権(人が生きるということ)」を基軸とした、「望ましい社会」を議論する空間がこの先求められるのです。

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