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ぼく、会社辞めます

「部長、ぼく、会社辞めます」
そう告げた時、部長は持っていたコップを落とし、盛大にコーヒーをぶち撒いた。

「五条さん、おれ、今日会社に辞めるって言ってきました」
二人での夕食時、五条さんに報告する。
「お、ついに?会社はなんて言ってた?」
コーヒーまみれになったデスクとおれを交互に見ながら、「え」「ちょっと」「拭くもの」「谷口」と単語だけ羅列した部長が落ち着いてから、二人で話をした。
「会社はおれに期待しているからぜひ残って欲しい。おれにとっても今辞めるのはもったいないと思う、って」
絶妙に火の入ったローストビーフを口に運ぶ。うまい。五条さんは本当に料理が上手だ。
「で、博人はなんて答えたの?」
二人のお気に入りのアマローネを一口飲んで、五条さんが聞いてくる。
「他にやりたいことがあって、30歳になる今がそれに挑戦する最後のチャンスだと思います。ここまで育ててくれた会社には本当に感謝してますけど、もう自分の意思は決まっています」
そう話した後、部長は「やりたいことってなんだ?」と尋ねてくる。
「スポーツ関係の通訳です」
と答えると、「そうか」とだけ呟き、それ以上は辞める理由を詮索してこなかった。「お前ならきっと何やっても大丈夫だろうから、頑張れよ」そう言って肩を叩いてくれた。
「いい部長さんだな」
五条さんのいう通りだと思う。辞める心残りがあるとすれば、部長さんを失望させてしまったかもしれない、ということだ。
「でも、本当の理由は違うんだろ?」
そう言いながら、おれのグラスにワインを継ぎ足してくれる。
「ーーうん」
そのワインで口を湿らせてから話し始める。
「五条さんにも知ってると思うけど、うちの会社、レクリエーションって言って社外での活動が多いんだよね」
春は花見、夏はバーベキュー、秋は登山で冬はスキー。
「もちろんそれを楽しみにしてる人も多いし、実際行ったら行ったて楽しいんだけど…」
問題は家族づれで参加可能なことだった。
「若手のうちはまだ良かったんだけど、30近くなってから同僚たちもみんな結婚して、子供も産まれて、じゃあおれはいつだ、って毎回言われるようになるようになって」
その度に、なかなか良い人がいなくて、とか、タイミングが合わなくて、みたいな話をするのは地味にしんどい。
そんなふうに思っていた時、今年の花見で部長から言われた言葉がトドメになった。
「谷口、男は家庭を持って一人前だぞ。お前みたいな良い男、ちゃんと遺伝子残さないともったいないだろ」
部長のことは上司として尊敬しているし、激務をこなしながら家族を大切しているのは本当にすごいと思う。携帯電話の待受も家族写真にしているし、結婚記念日や子供の誕生日には、部下にすまないと言いながら、定時で帰っていく。
「だけど、それはおれにはできないから」
高校生の時に、自分の恋愛対象が男だと気づいて、アメリカ留学中に五条さんと出会ったのが20歳の時。帰国してから偶然に五条さんと再会してからすぐに付き合い始めて8年、一緒に住むようになって4年が経った。
「でも、おれ、五条さんには迷惑かもしれないけど、おれにもちゃんと家族がいる、って思ってる。」
「なのに、このまま今の会社に居続けたら、おれには誰もいない、って一生嘘つき続けなきゃいけないんじゃないかって思ったら怖くなって…」
そこまで話して、急に涙が込み上げた。

自分なりに頑張ってきたこれまでを捨てたこと。
捨てたくて捨てたんじゃないこと。
結局おれはその怖さから逃げただけだ、と気づいてしまったこと。

悲しくて、情けなくて、嗚咽が止まらなくなる。
五条さんはしばらくそのまま泣かせてくれた。
そして、ようやく嗚咽が少しおさまった頃、
「よく頑張ったな」
そう言って頭を撫でてくれた。
「自分が自分らしく生きられない職場なら、俺は辞めて良かったと思うよ」
五条さんの言葉が胸の中に温かく染み込んでくる。
「もちろん全部が自分の思い通りになる仕事なんてないと思う。でも、今の日本でLGBTQを完全に認めてもらうのはやっぱり難しいから、そこから離れてフリーランスで生きていくのもありなんじゃないかな」
日本ではなかなか理解されないかもしれないけどー。五条さんはそう前置きして、
「俺はいつでもお前の味方だ、ってことは覚えておいて」
自分が肯定されることがどれだけ幸せなことか。
五条さんはいつもそれを教えてくれる。
「ーありがとう」
涙を拭きながら、ようやくそう言えた。
「ところで、もちろん俺も、博人のこと家族だと思ってるからな」
だから、これからも二人で一緒に頑張っていこうな。
五条さんの言葉を聞いているうちに、また嗚咽が止まらなくなる。
嬉しくて、幸せで。
「ほら、ワイン、飲んじゃおうぜ」
そう言っておれの頭をぽん、と叩く。
「それからー」
涙を拭くおれに五条さんが真面目な顔で言う。
「家族なんだから、五条さん、って苗字で呼ぶのは変だよな。これからは俺のこと、名前で呼んでくれ」
10歳上だから、初めて出会った時に名字で呼んで、付き合うようになっても読み方を変えるタイミングが分からなくて、今では名字で読むのが自然になっていたけど。
ーはい、早速練習。
そう言って五条さんがニヤッと笑う。
「健太郎、さん」
自分の顔が耳まで赤くなっているのが分かる。
「よくできました。まあ、これからは好きな方で呼んでいいよ」
ずるい…。
「そんな顔するなって。お祝いにもう一本ワイン開けようか?」
うん、じゃあ、と家にある一番高いワインの名前を口にする。
「…博人、やっぱりお前なら何やっても大丈夫だよ」

自分が自分らしく働けるように、その一歩を踏み出せたことに、乾杯。

#私らしいはたらき方

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