妻がコーヒーを飲まないので、我々夫婦の朝は紅茶だ。帰国当初は少し値の張る茶葉を購入していたが、バタバタと味わう暇なく流し込んでいるだけであることに気付き、「ガブ飲み」系ということでトワイニングに落ち着いた。
飲んでいるのは最もポピュラーと思われる200g入の缶なのだが、新しいものを開封するときいつも不思議を感じる。
缶の蓋を開けると更にアルミホイルのカバーがされており、その一つの角にはつまみがあるのだが、構造的にきれいに開くはずがなく、必ず中途半端なところで裂け、あとは丁寧に残りのアルミを剥がしてゆかなければならない。商品開発の工夫でいくらだって修整、解決する課題である。
ロイヤルワラントの紋章を持つ、世界的な商品であり、私のような煮えきらない思いは声となって間違いなく会社に届いているはずだが、「変えない」という自信なのか、信念なのかは、100円程度で買える何とかマジックリンの詰替え用の袋ですら容器に合わせて独自の挿入口が採用されている日本のいち消費者にとってはなかなか理解が難しいところである。
しかし、よく考えてみると日本でも、少なくとも僕が子供の頃から形を変えず、一貫して消費者に不便を強いている商品があり、肝が小さい日本人において、その頑固さは逆に誇りとするべきであろうか。
何かというと、そうめん、ひやむぎの類の話で、スーパーで買うものは8-10束、4-5人分が一袋で、縦横、中身の大きさにギリギリに近いサイズをハサミで開けて必要数を取り出す。我が家では父を含め家族3人で食べると必ず余りが生じるので、それをどう保存するかをいつも考えさせられる。
揖保の糸がそうでも許容してしまうところだが、後発の、スーパーのプライベートブランドですら何もそんな悪習をなぞる必要はないのにと思うのだが、何か別の深い理由があるのだろうか。



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