父は、片親であった自身を不幸の星に生まれた何者かと思い込みたいようだが、86年の人生を見聞する限り、苦境に陥ると、自ら助けを求めるわけでもないのに、必ず周りの誰かから手が差し伸べられる。妻曰く「持っている」類の人間であるのだと思う。
我々夫婦もその「誰か」のひとりである。浦和の駅から中途半端に離れた住宅街の一軒家で、エキセントリックな兄との二人暮らしによるストレスで極限まで追い詰められた父を浅草の今の暮らしへと誘った。心身の衰弱が激しく、当時2,3年と見積もっていた共同生活も丸12年が経つ。
80㎡に満たない3LDKのフラットな空間における息子夫婦との暮らしが窮屈でないわけがない。我々も転ばぬ先に杖を与えるような気の配り方はしていないので、言わば暇と孤独との日々の闘いであるようだが、それにしても、この12年間で代わる代わる「誰か」が意図せず父の生活を支えてくれている。
マンションの自治会の女性会長から声を掛けてもらい、誘われるがまま自治会の役員となり、真っ白な予定表が少し文字で埋まるようになった。
高校の野球部の同級生からは毎朝定時に電話が掛かってきて、1時間以上飽きもせず話をする。
或いは、浅草に住んでいることから、大阪の同窓生が東京見物に来るときに道案内を頼まれたりもしている。
ただ、老齢は、当たり前に思えた日常一つ一つを容赦なく終わらせる。
しかし、父が「持っている」のは実はその後の話で、唐突にできた空白を、また「誰か」が埋めてくれるのである。
そして、今の父を支えてるのは「文さん」だ。
父の中学、高校時代の同級生のようだが、若い頃に深い付き合いがあったわけではなく、母が死んで65を過ぎた頃に参加した同窓会で卒業以来、4,50年振りに一度だけ会って、気が向いたときに手紙で連絡を取り合っているような関係だった。
この数年、その手紙をポストから取り出すことが増えてきて、今年に入り毎日のように父に手渡しているかなと感じ始めるやいなや、コミュニケーションに電話が加わり、遂に先月には中学の同窓会出席を理由に、ヨタヨタと歩きながら、「文さん」に会いに大阪まで出かけて行った。
我々でカバー出来ない父の空白を埋めてくれる「文さん」のような存在はとても有り難く、出来得る限り長い付き合いとなることを願っている。それゆえ、現役であった60代のイメージを引きずり、互いに年老いた姿を見て、燃え上がった気持ちが一瞬で冷めるようなことはないのか、大阪行きを決めた際は心配をしたものだが杞憂に終わった。
今では毎晩8時がホットラインの時間となり、父の部屋からは僕の50年で聞いたことのないような浮かれた声が漏れてきている。
学生時代、僕が妻と付き合いだしてすぐ、妻の実家に行った際、義父から「娘は恋に恋しているだけだ」と言われた。まさに今の父も、そんな状態なのかもしれない。
しかし、一つ言えることは、気持ちが燃え上がれば燃え上がるほど、関係に終焉を迎えたときの反動は比例的に大きくなることは覚悟はしておかなければならない。
これまで伏兵だった「文さん」に、いつの間に我が家の浮沈が握られていた。
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