キャラクター設定を盛り込みすぎたため、あっけなく化けの皮が剥がれてしまった佐村河内守という作曲家の謝罪会見は、この国のメディアのおめでたさを露呈した場としていまも強烈に印象に残っている。
聴覚障害は彼の基本設定の一つで、会見は手話通訳を交えての応答となるのだが、その存在はあまりにも小さかった。
東南アジアのある国に8年ほどいて、その国の言葉を学び、日常生活や職場内で話が出来る程度のわたしの語学力を誤解し、依頼されたいくつかの通訳業務では、未だ思い出すだけで穴に入りたくなるような記憶ばかりである。
言葉だけでなく、まるで国も、政治、社会、文化的背景でさえ超越したかのように、区切りを置かず一方的に話される内容をまとめ、相手と包括的に共有出来る言葉に超短時間で変換し、それをまた相手に返すという行為を処理することにどれだけの能力を要するのか。基本的にわたしは他人をバカにしたようなところがあるが、同時通訳者という肩書きの方たちにはどんな容姿、性格であれ全面的に敬服している。
音声を身体化する手話を使った同時通訳者ひとりを介しての会見や質疑応答がそもそも成立し得るのかは知らないが、恐らくあの通訳さんだけの映像を拾ってみれば会話など成立しているはずがないことは手話を理解しない人間でもわかり得るものであろう。
「会見は白熱し、2時間の予定を大幅に過ぎ、2時間40分にも及んだ」的な報道を何の躊躇もなく行える同じメディアが伝える国際情勢や差別問題がどれだけ薄っぺらいものかだけはよく分かった。
今の朝ドラもつまらないが、その前はもっと酷かった。外国語を覚えることでヒロインの世界が広がってゆくという内容の作品が、恐らく誰一人母国語以外は知らず、言葉で苦労をした経験のない、蛸壺のタコのような人間たちによって(しかも視聴者から徴収したお金で)制作され、「常識」というフィルタすら通らず世の中に出てしまう。
人はその人の頭以上のものは産み出せない。今のメディアにまともな人間はいるのか。いや、そもそもまともな人間がメディアに入るのか。
メディアの存在のお気楽さについてもっと議論され、そんな下らない世界に少しでも影響を受けてしまっている世の中が解放されてゆくことを望んでいる。

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