倒された奴隷商人像と社会の成熟

学生時代に好んで読んだ関川夏央の北朝鮮本の「進歩的」文化人批判で、「よく知りもせず、他の国に自分の理想を仮託して...」という一節があったが、黒人差別の抗議運動で、奴隷商人の銅像を引き倒すなどエスカレートするヨーロッパ各国の映像を見ていると、成熟をしていると思い込んでいたヨーロッパ社会の青臭さに勝手に驚いている。
昔、休息日の日曜日にドイツのある街を訪ねた際、中心街すら静まり返り、どの商店も閉まっている中、空いていたのはスタバとマックだった。たまたまの光景であったのだろうが、合理的であること以上の価値を持たない米国と、宗教的倫理観が人々の暮らしに深く根を下ろすヨーロッパとの象徴的なコントラストとして僕には映った。
自分はなぜここにいて、どこにいくのか。結局のところ、人間とは終わりのないストーリーの構成員として、良くも悪くも右から得たものを壊さず左へと渡す役割を負って生きてゆくのだという諦念を基底に、無邪気にドリームは語らず、分相応の人生を最大限有意義に生きることを模索してゆく姿に僕は社会の成熟を感じる。
奴隷商人がバツだとしたら、果たしてエリザベス女王はマルといえるのか。過去を善悪で判断し、勢いに任せて「悪」をバッサリ捨てたその先に立つ自分の足元には何も残っていないというような愚だけは決して犯すべきではない。







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