中堅どころの女優として、芸能界である程度の基盤を築いたといえる大塚寧々さん。
これまで彼女が書いたであろう膨大な数のサインの、初期の初期にもらったことは少し自慢である。
日大芸術学部の写真学科に通っていた寧々さんは父親の出身高校の東京で開かれる同窓会に写真を撮りに来ていた。寧々さんの父親 (大塚さん)の同級生である父もそういうわけで彼女をデビュー前から知っていた。その後寧々さんがカネボウのキャンペーンガールに選ばれたと聞いた父は「ああ、大塚家は代々慶応だからなあ」と言った。カネボウは慶応閥ということで、慶応出身者しか出世しない企業風土があり、大塚さんが慶応を出ていることも、寧々さんのキャンペーンガール決定を後押ししたのではないかと言いたかったようだ。
キャンペーンガールに選ばれた直後の同窓会にも寧々さんは顔を出し、そのときキャンペーンのポスターにサインを入れてくれたものを父が持って帰ってきた。
中学生のとき、全日本プロレスを観に友人と後楽園ホールに行った。指定された時間に入り口で待っていると実況の倉持アナウンサーが迎えに来てくれ、中学生二人を最前列に座らせてくれた。その後、20年近く経った後に父が大塚さんに手配を頼んだことを知った。
晩年は酒が身体を蝕んでしまったが、お坊っちゃま気質で、とにかく顔の広い人だった、と死後数カ月経った後大塚さんの訃報に接して話してくれた父の話を今でもよく覚えている。

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