三峰とシャニPの「素敵な関係」が最高という話~「伝える」ことによせて
【公開時追記】
これは三峰のp-SSR【kaleidoscope-pinball】が実装された2022年(はや二年前!)に書いておきながら、「いや、さすがにこれは気持ち悪すぎるわ…」と公開できなかった記事です。
感想キャンペーンに乗っかって、2024年4月に公開するにあたり、少しだけ追記しています。
三峰と、「Pたん」ことシャニPの関係、素敵やな……と思って書き始め、その「素敵さ」の理由について考えてみた次第です。
・独自解釈の権化です。
・謎に偉そうな文体です。
・ネタバレを絶賛含みます(追記したことによりシャニソンも含む)。
以上、ご了承のうえでお願いします。
#シャニマス感想コンテスト #シャニマス #三峰結華 #ネタバレ
最近の三峰とシャニP(登場人物としての)の関係が愛おしすぎて、思わず語りたくなってしまいました。
なお、本稿にはシャニマスの三峰関係の各種コミュの【ネタバレ】を【盛大に】含みます。気にされるかたはブラウザバック推奨です。
はじめにの前に:人物紹介
まず、本稿でふれる登場人物を紹介する。
三峰結華(みつみね ゆいか)
283プロダクションに所属するアイドルで、クール系ボーカルユニット「アンティーカ」のメンバー。
現役大学生で、トレードマークは眼鏡(ただしかけていないことも多い)。
いっけんノリの良いお調子者だが、常に周りをよく見ており、サポート的な立ち回りをすることが多い。
気遣いができる裏返しか、他人にどう見られるかに敏感で、「気にしい」な面も。自覚もあり、自身の性格を「めんどくさい」と称することもしばしば。
公式でもサブカル女子と紹介されており、ファッションやゲームなどさまざまなジャンルに造詣が深い。なかでもアイドルについては筋金入りで、プロデューサーにスカウトされたのもドルオタがきっかけ。
シャニPからは「結華」と呼ばれており、ゲーム内の台詞欄も「結華」だが、本稿では一人称の「三峰」表記とした。
シャニP(プロデューサー)
283プロダクションの新人かつ敏腕プロデューサー(なお、筆者の283プロ最推し)。
ゲームシステムのうえでは、プレイヤーの分身となる存在であるが、その性格や言動は、アバターの範疇を超えて、ひとりの登場人物として充分以上の魅力を放つ。
基本的に性格は真面目。仕事は常に超多忙だが、それでいてアイドルたちへの気遣いも忘れない人格者。
アイマスシリーズのプロデューサーの性か、外見や出自はほとんど明らかにされておらず、本名も不詳。
三峰からは、場面に合わせて「Pたん」「プロデューサー」などと呼ばれている。本稿では、文字数の都合からシャニPで統一した。
はじめに:三峰結華と鏡について
シャニマスの全体曲「シャイノグラフィ」の冒頭に、こんな歌詞がある。
さて、2022年5月に実装された【kaleidoscope-pinball】三峰結華では、「鏡」が前面に押し出されている。
見せたい自分/見られる自分に自覚的な三峰にとって、また、度々めんどくさい(?)自問自答を繰り返す三峰にとって、「鏡写しになった自分」というイメージは相性が良いように思われる。
だが、意外にもゲーム内の三峰単独コミュで本格的に「鏡」が登場するのは、今回が初めてだ。
しいて言えば【雨に祝福】の演出で、スクーターのミラーがでてくるが、このとき映し出されるのは三峰自身ではなく、シャニPである。
ここでシャニPが映し出されることも、三峰とシャニPの関係性を語るうえでは重要と思われるが、それについては後に言及したい。
さて、ゲーム以外の媒体に目を向ければ、ぴったりなイラストが出てくる。三峰がアンバサダーに選ばれた、雑誌「BRUTUS」アイマス15周年特集号のインタビュー記事である。
このシチュエーションが選ばれた理由について、記事内で次のように語られている。
これに対する三峰の答えは次のとおりである。
コラボ雑誌の記事でここまで踏み込んでおきながら、ゲーム本編に鏡が登場するには、さらに現実時間で丸一年以上がかかったことになる。
これほど時間がかかった理由は、やはり三峰にとって「鏡写しの自分」というイメージが大切なものであり、なおかつ、「BRUTUS」インタビュー当時と「今」では、そこに向き合い方の変化があったからではないだろうか。
嘘や虚像ではなく、また堂々巡りの自問自答のための道具としてではなく、三峰がまっすぐに鏡の自分を見つめられるようになったタイミングが、「今」だったように思われる。
かがみよかがみ
……はてさて、冒頭で「三峰とシャニPの関係が」と書いておきながら、なぜ鏡のことばかり語っているのかというと、ずばり三峰とシャニPの関係にも、「鏡写し」の美しさがあると考えるからだ。
「鏡」以前
まずはそこに至る経緯から辿っていきたい。
割と初期から、三峰とシャニPはよい相棒である。
ドルオタの性分もあって研究熱心な三峰と、プロデューサーとして真面目極まりないシャニP。二人して、ファッション研究に地下アイドルのライブ、ショップ回り……と、研究に繰り出すコミュも多い。
この頃の特徴として、三峰がかなり積極的な印象が挙げられる。
視点を変えれば、三峰のからかいに対して、シャニPの側に遠慮が見える。もちろん随所に、のちの鋭い返しの片鱗は見えるのだが、このときはまだ変幻自在な三峰のペースに、シャニPが巻き込まれている場面も多い。
そしてもうひとつ、この頃の関係性は、どこか「恋人ごっこ」が指向されているようにも感じられる。
例を挙げるならば、上にも挙げた【お願い、ただの少女がいい】で、二人が地下アイドルのライブに出かけた際の一幕だ。
別の例を挙げるならば、【それなら目をつぶりましょう】で、店員の勘違いをいなすため、なりゆきで恋人のフリをするシーンがある。
これらは三峰のからかい・おふざけ・ノリの良さの延長線上であったり、場を切り抜けるための方便であるのだが、それゆえにホンモノではない「ごっこ」の印象が強調されているようにも思われる。
つまるところ、微笑ましくも紋切型な「わたし」と「あなた」の関係性である。いま一歩、踏み込みきれない、他人同士の関係だ。
そんな、予防線を挟んだ関係に、三峰は、そしておそらくシャニPも、自覚的である。それが垣間見えるのが、【それなら目をつぶりましょう】の後半コミュだ。
仕事のために無茶をするシャニPを心配して、三峰が声をかけるシーンから。
シャニPが無理していると知りながら、結果として三峰は見逃すことを選んでいる。
彼自身の意地を汲んで「見逃す」ことは、優しさであると同時に、「彼の見せたい彼自身」=「シャニPの思うシャニP」を尊重して、踏み止まることである。
と、同時に、三峰はシャニPにも、まだ「踏み込む」ことを許さない。
この時点ではまだ、明るさとノリの良さで韜晦した奥は、すなわち「見せたい自分」以外のものには、「目をつぶって」いてほしいと願っている。
他人という鏡にも、自分が思う自分が写っていてほしいと。
自分では見えない「自分」
そんな関係性に一石を投じたのは、やはり【NOT≠EQUAL】、そしてファン感謝祭編であろう。
【NOT≠EQUAL】については、何度読み返してもそのたびに意味が変わって見える、それこそ万華鏡のような話であり、とても語り尽くすには力が及ばないのだが、
「三峰とシャニPの関係性の土台を築いたこと」
は、間違いないだろう。
そんな三峰の独白から始まるこの話は、諸々を経て、次の一言で解決にたどりつく。
これを強引に本稿にひきつけて考えるなら、「たとえ三峰自身が、自分を見失ったとしても、プロデューサーは「見つけて」くれる」という確信を得た話……と言えるのではないだろうか。
過程を省略した強引な我田引水は百も承知であるが、それは先にも述べたとおり、これが【NOT≠EQUAL】の写す一側面に過ぎないと考えるからだ。
この話で三峰がぶつかり、悩んだこと、そして「それ」にどう向き合ったのか、という解釈は、読む人それぞれが抱くものであるし、安易な断定は避けたい。
あくまで、そういう側面も含まれているのではないか、という見解である。
(そんなこと言い出したら、本稿全体が「そういう側面もある」という話なわけですが……!)
そして、【NOT≠EQUAL】を上記のように捉えるための補助線として、ぜひファン感謝祭編を挙げておきたい。
自分自身が見失った「自分」を見つけてくれるのは、自分にも見えていない部分を「見抜いて」、なおかつそこに「踏み込んで」くれる人である
――。
実装時期としては、【NOT≠EQUAL】やその前の【それなら目をつぶりましょう】よりも遡るファン感謝祭編だが、そんな確信を突いているように感じられる。
しかも、ほかならぬ三峰自身によって、それが体現されている。
ファン感謝祭編で三峰は、咲耶が隠そうとする気持ちに、間違いなく「踏み込んで」いる。
人に踏み込まれることを苦手とする、そして、自分がされて嫌なことは絶対にしないであろう三峰にしては、意外ともとれる行動だ。
咲耶やアンティーカを大切に思うが故に、この瞬間、三峰は自分らしさを捨ててまで、「踏み込む」ことを選んだように思われる。
【公開時追記】
このことについては、後にシャニソンで補完されている。
らしくない「傲慢」なことが、アンティーカにおいては、できてしまった。
そして、自分ができたように、きっとアンティーカの皆も「踏み込んで」くれる――すなわち、「踏み込まれる」覚悟も必要だと自覚していることが、より明確に示された会話となっている。
後述するenza版ファン感謝祭編エピローグとも、ぜひ読み比べてほしい。
(ここに至るまでの、そしてここから続く「アンティーカの三峰」についても語りたいところではありますが、紹介すべきコミュが数十倍にも膨れ上がりそうなので今はぐっと堪えておきます……!)
とにもかくにも、三峰が踏み込んだ一歩をきっかけに、皆が自分の想いを見つめなおし、伝え合うことで、アンティーカのファン感謝祭編は大団円に向かう。
ここでシャニPが言う、見えているものが違うからこそ、お互いを信じて、伝え合えたときに、大きな何かが生まれる――。それは、相手の見ているものを、ありのままに受け入れることの難しさと表裏一体なように思われる。
感謝祭後のエピローグで、三峰はシャニPに対して、少しばかりのおどけを交えながら、次のように今回のことを振り返っている。
三峰自身が言っているとおり、隠そうとしたところで、案外、他人からは「丸わかり」なこともある。
だからこそ、見抜いた側は「踏み込む」勇気を、見抜かれた側は「踏み込まれることを許す」勇気を試される。
しかしここでも、【それなら目をつぶりましょう】の時と同じように、二人は「見抜いたうえで、見て見ぬふりをしてほしい」という妥協点に落ち着いている。
この、見つけてほしい/でも踏み込まないでいてほしい、という相反するような心境は、三峰のソロ曲「プラスチック・アンブレラ」にも繰り返し現れる。
三峰にとって、見抜く=見つけることと、近づく=踏み込むこととは、明確に線引きされている。
その二つのあいだには、「伝える」という、勇気のいる行動が横たわっているのではないだろうか。
さて、三峰が、見つけてもらったもの=シャニPという鏡が写しだす自分と向き合うには、【NOT≠EQUAL】を越えて、さらに先へと進む必要がある。
その「望み」は誰のもの?
三峰の引いた予防線が、踏み越えられるのはG.R.A.D.編だ。
このとき初めて、シャニPは自らの「望み」を伝えることを選んでいる。
G.R.A.D.という大舞台を前に、三峰とシャニPは、ほかならぬ三峰自身の自己評価について、衝突することになる。
やや長くなってしまうが、(たまらなく素晴らしいやりとりなので)発端となる出来事から引用しておこう。G.R.A.D.でのライバルであり、ドルオタ三峰の「推し」でもあるアイドルについて、三峰がシャニPに意見を求めたシーンだ。
相手のことを大切に考えるからこそ、分かってほしいと伝える。
だが、三峰にとって「自分」は何よりも難しい問題だ。
それをシャニPも知っていて、伝えることで悩ませると分かっていながら、それでもなお踏み込むことを選んでいる。
……このときのシャニP最高かよ!
……というのは置いておいて(それも本旨なのですが!)
中ほどでシャニPが使った「ぶつかる」という言葉は、ふたたびソロ曲「プラスチック・アンブレラ」の一節を連想させる。
踏み込まない/踏み込ませない、というのは、三峰にとって誰かと「ぶつから」ないための処世術だったのだろう。
それは、シャニPに対しても同様であり、また、上記の【それなら目をつぶりましょう】やファン感謝祭編では、先手を打つように予防線を示してさえいた。
そしてシャニPも、はぐらかされるままに、これまではあえて踏み込むことをしなかった。
そんなシャニPが最初に踏み込むことを選んだのが、G.R.A.D.編の「これ」というのは、やり口を含めて、彼の優しさと意地の悪さ(誉め言葉)が遺憾なく発揮されていると言えるだろう。
さて、ここで最初に引用した全体曲「シャイノグラフィ」をふりかえりたい。
この歌詞は次のように続いていく。
「一緒に居」て、「君色」が見えているだけでは足りないのだ。
それをしっかりと言葉にして、相手に伝えること。
そして、伝えられた側も、それを自分では見えない「自分色」として
受け入れたときに初めて、「翼」は実体を持つのである。
しかし、自分では見えない自分を認めるのは、(たとえそれがプラスのものであっても)簡単なことではない。お互いに譲れないものであれば「ぶつかる」こともある。
したがって、初めに書いた三峰とシャニPの「鏡写し」の関係とは、決して受動的なものではない。両者が伝えること/受けとることを恐れず、互いに繰り返していける信頼感があってこそ、たどりつくことのできた境地だ。
G.R.A.D編エピローグのインタビューで、今回シャニPと「ぶつかった」エピソードを、三峰はファン(第一号)からの言葉として語っている。
これを聴いたインタビュアーのひとことに、すべてが凝縮されているだろう。
「鏡写し」の美しさ
ようやく、語りたいところまで着くことができた。
ここで二人の「素敵な関係」の一幕を紹介していきたいと思う。
互いをよく見てる
相手を見る、ということは、すなわち相手からも見られるということ。
二人の関係を鏡に例えたくなった理由もここにある。
二つほど例となるやりとりを紹介しておこう。
まずは、気遣い合戦になった三峰とシャニPが交わした、小気味の良い会話から。
このなんとも天邪鬼で、しかしお互いしっかりと伝え合っている感じ、実に最高である。
というか、似てきたといえば、初期のシャニPはもう少し素直だったような……? 実に粋なきりかえしをするようになったあたり、間違いなく「誰か」に似てきている。
続いて二つ目の例。
「長所」に悩む三峰に、シャニPが「短所と思っているところを言い換えてみたら」とアドバイスするシーンがある。
しかし、この直後、シャニPもきりかえされて、言葉に窮している。
やはり、自分というものは、案外見えないもののようだ。
そして、こんな他愛ないやりとりの中にも、さりげなく二人の関係性の変化が垣間見える。
ブーメラン飛び交う
似た者同士の、そしてますます似てきつつある二人は、ことあるごとにブーメランをくらわせあっている。それこそ数え切れないくらいなので、ここでは二つ例を挙げるにとどめておこう。
その1「謙遜」のブーメラン
これは、だいぶ上の方で紹介した、三峰とシャニPがなりゆきで恋人のフリをするコミュの続きである。「相手が俺なんかで嫌じゃなかったか」と尋ねるシャニPに対して、答える三峰だが、次の一言が問題である。
ここまで読んでいただいた諸氏におかれましては、もうお分かりだろう。
後のG.R.A.D.編で、盛大なブーメランとなって三峰自身に返ってくる一言である。
ちなみに、同G.R.A.D.編の後半では、この謙遜ブーメランがさらにもう一周してシャニPに返ってくることになるが、
「かっこつける」やら「予防線」やら「自信持って」やら、もはやどちらのことを言っているのか分からないまである。
それだけ三峰にとって、G.R.A.D.編はふっきれたエピソード……ということかもしれないが、それにしても、二人のこれまでを知っていると、微笑ましさしかないやりとりである。
その2「真面目」のブーメラン
こちらも、始まりがどこか分からないほど繰り返されているブーメランである。
シャニPが真面目なのは当然として、シャニPも三峰を再三「真面目」と評している。最初……と言えるのかは分からないが、朝コミュのNormal(はずれ)選択肢として出てくるのも印象的だ。
続いて、以下にシャニP→三峰への「真面目」評コレクションを並べてみよう。
時間を大きく遡って、W.I.N.G.編でも次のようなやりとりが交わされている。
諸々、のちの話につながる芽が見え隠れしているが、この時はまだ、最後にはぐらかしてしまう三峰である。
さらに、真面目という言葉こそ出てこないが、次のエピソードも紹介しておきたい。
こちらは逆に、新しめのコミュから。珍しく打ち合わせに遅れかけた三峰に、シャニPが理由を聞く場面である。
これでもかというほど、何重にも真面目さが敷き詰められた会話である。
さて、こうして見てみると、シャニPの「真面目」評は、三峰の自称「めんどくさい」性格や性質に対してのものだと分かる。
三峰自身はマイナスと捉えている性格なので、朝コミュのように、「真面目」と言われても素直に受け取れない部分もあるのだろう。
それでもめげずに、シャニPは「真面目」=プラスに言い換えて伝えることを諦めない。先取りしてしまった感はあるが、上で挙げた「長所と短所」の会話も傍証となろう。
そして何よりも。そんなふうに、三峰の真面目さに、めんどくさがることなく向き合おうとするシャニPの姿勢こそ、どこからどう見ても「真面目」なのである。なんとも見事なブーメランが決まっている。
再演、たとえ逆の立場でも
二人の「素敵な関係」として、最後にどうしてもこれを紹介しておきたい。まさしく鏡写しのように、近ごろの三峰とシャニPは、互いの立場を入れ換えて、大切な出来事を再現している。
【Hakoni□a】では、すべての始まりと言える「雨の日の出会い」が再現される。比較のため、「初演」すなわちシャニPが三峰をスカウトするシーンから引用しておこう。
続いて、【Hakoni□a】での再現。
文面だけではお伝えできないが、台詞だけでなく、効果音や間の取り方、小道具まで、オマージュにあふれたコミュとなっている。
続いて、最新の【kaleidoscope-pinball】では、「二人の関係性の土台を築いた」話として紹介した【NOT≠EQUAL】の一場面が再現される。
【Hakoni□a】のように本人たちが意識的に行ったものではないが、意図的な再現であることは導入の演出からも明らかである。
そしてここでも、【NOT≠EQUAL】の時の、探すシャニP/見つけてもらう三峰、という立場が逆転している。
【NOT≠EQUAL】ではシャニPが、【kaleidoscope-pinball】では三峰が、それぞれ相手の「隠しておきたい」という気持ちを慮りながらも、最終的には「話したい」「聞きたい」という自らの想いを伝えている。
まるで、相手の気持ちを追体験させるような出来事になっているのは、上記の【Hakoni□a】の再現とも共通だ。立場を入れ換え、相手の気持ちを自らのものとして理解することで、改めて自分自身の立ち位置を見つめなおす――まさに鏡写しに自分の姿を確認するようなやりとりが交わされているように思われる。
さて、ここで言及しておきたいのが、冒頭で保留した「スクーターのミラー」だ。【雨に祝福】は、三峰のコミュで初めて「鏡」が出てくるシーンであるが、そこにはシャニPが映し出される。
ここまで述べてきた「鏡写しの関係性」で捉えるならば、ミラーに映し出されるシャニP=三峰自身と代入可能なのだろうか。
もちろん、その側面もあるのだろう。この時の三峰は、シャニPの姿を通して、自分自身の内の葛藤と向き合っているようなふしもある。
しかしここでは、心配して手を差し伸べようとするシャニPを、やんわりと否定するように、三峰は微笑み返している。
ここで三峰は何を拒んだのだろうか?
それを考えるために、【雨に祝福】のコミュを掘り下げるとともに、鏡写しの先にある関係性について触れておきたいと思う。
かがみよかがみ――に、ならないために
以心伝心を拒みたい
先ほどから紹介している【雨に祝福】では、ドラマの配役をめぐって、三峰が「見せたい自分」と、「他人が抱くイメージ」の葛藤が描かれる。
それまでの三峰にとって、両者はほぼイコールであり、葛藤が生じることも少なかったのだろう。だが、G.R.A.D.編でシャニPとぶつかり、自分では見えない自分に気づいたことで、三峰の中での「見せたい自分」にも変化が生じはじめる。
そしてそんな三峰に、「いつもと違う感じの役」のオーディションという形で、新しい挑戦を持ちかけたのは、もちろんシャニPだ。
その責任感もあってか、この時の彼はいつもより心配している。
その様は、「自分のことのように」という言葉がぴったりで、相手を慮るあまり、「本人より緊張」してしまう勢いだ。
……ちなみに、この【雨に祝福】の実装時期は、冒頭で紹介した「BRUTUS」コラボ記事が刊行された時期に近い。つまり、(ゲーム本編では描かれていないといえ)三峰が初めて鏡の自分と向き合う時期である。
そして、このオーディションの結果についても、同記事のインタビュー内で言及されている。
自分のイメージ=殻を破れなかった、という結果は、三峰だけでなく、彼女の心中を自分のことのように見抜けてしまえるシャニPにも、重くのしかかることになる。それが、くだんの「スクーターのミラー」の場面である。
この時のシャニPは、自分の責任感や心配する気持ちと、鏡写しに見抜いた三峰の心中とを混同してしまっているようにも見える。
すでに良き相棒にして、似た者同士、そして相手の気持ちを慮れる二人にとっては、見抜くという言葉より「以心伝心」が適切かもしれない。
もはや写すつもりがなくても、お互いの中の鏡に相手が映り込んでしまう。
ここで三峰が(優しく)否定したのは、まさにこのことだったのではないだろうか。
これは一見、「踏み込まないで」という予防線にも思える。
しかし以前の関係性と同じでは、恐らく、ない。
繰り返しになるが、二人の「鏡写しの関係性」とは、(字面のイメージには反するが)受動的なものではない。見えたものを伝えて、それを互いに繰り返していくことだ。
ここで三峰は、三峰以上に三峰の気持ちを代弁しようとしてくれたシャニPに対して、「それはいらないよ」と伝え返しているのだと思う。
続く第3話で、シャニPも伝えられたものをしっかりと受けとり、「謝らなきゃ」と伝え返している。
以心伝心は美しいが、そこにはどうしても勝手な想像が入り込みうる。だからこそ、改めて自分の言葉にして伝えることが、二人の関係性において一番大切なのだろう。
【雨に祝福】は、自分たちの言葉で、伝えあって「すり合わせ」ていくことを、三峰から言いだせたことに、大きな意味があったように思われる。
そのことは、【雨に祝福】のホームボイスにも表れている。
「そっち行くから」と自分から踏み出す宣言をしているところが、【それなら目をつぶりましょう】の「踏み込んじゃやだ」と似ているようで、対照的な一言となっている。
なお余談ではあるが、言葉にしないままの曖昧な以心伝心に対する危惧は、他のコミュでも垣間見える。
ひとつ目は、【NOT≠EQUAL】でシャニPとの関係性について、三峰が思い込みを自戒するシーンから。
このセリフには、言語化されない二人の関係性に、甘えていたことを自覚する響きがある。そして先述のとおり【NOT≠EQUAL】を経ることで、二人の関係は「アイドルとプロデューサー」として再定義され、今に至る基礎が作られる。
(このコミュのタイトル「動点Pとの距離を求めよ」が好きすぎて、どこかで引用したいと思っていましたが、ようやく……ようやく紹介できました!)
ふたつ目は、【Hakoni□a】のコミュから。
相談したわけでもないのに、ちょっとした悩みすらシャニPに見抜かれてしまったことを、三峰は冗談交じりに自らの「退化」と評している。
そして、このコミュは三峰の良い笑顔で、唐突に終わる。
【Hakoni□a】は、これまでの話と無数の繋がりを持ったコミュであるだけに(TRUE ENDには、出会いの「再演」まで控えていることを思い出してほしい)、この宣告は重い意味を持つように感じられる。
今の三峰が、シャニPに対して嘘を吐かないといけないとすれば、それはどんな状況で、どんな嘘なのか、大いに興味を惹かれずにはいられない。
……余談はこれくらいにして、本筋に戻ろう。
反省会。話しあうことを諦めない
鏡写しの関係性のなかで、しかし以心伝心には陥らないように、二人は、言葉にして伝え合うことを繰り返している。G.R.A.D.編以降、毎回のように行われる「確認と把握」のための反省会が、その象徴だ。
G.R.A.D.編後半でシャニPから「やりたいこと」として持ち掛けられた、この「二人で納得を目指すための手順」は、すでに紹介した【雨に祝福】のオーディション後に、三峰の側から再確認される。一部重複してしまうが、改めて一連のやりとりを引用しておく。
この会話に続く三峰の決意表明は、まさに、G.R.A.D.編でシャニPが言った「納得できるまで話したい」に対する、三峰の答えになっている。
ここで言う「今は言えないこと」には、もちろん今までの「隠しておきたいこと」も含まれているのかもしれない。しかし、それ以上に、まだ三峰が「自分の中で言葉にできていないこと」というニュアンスがあるように思われる。
そう考える理由は後に譲るが、ともかく、そんな「今は言えないこと」を含めて、自分から「言う」=伝えると宣言された【雨に祝福】のエピソードには、三峰とシャニPの関係性の深化が表れている。
さて、二人の反省会エピソードとして、絶対に外せないのがLanding Point編だ。
【雨に祝福】以降、アイドルとしての仕事の面でも、「今までの自分とは違う一面を見せる」ことは三峰の目標となっている。
Landing Point編の後半では、そんな、新しい挑戦の機会として舞い込んできたテレビ番組への出演依頼が話の中心となる。
いままでオープンにしてこなかった「趣味」について伝えられる機会ではあるが、ぞんざいともいえる扱いに、シャニPは割と早い段階で結論を出していたように思われる。
同時に彼は、苦手な空気であると承知しながら、依頼をうけようとした三峰の心中も、正しく察している。
自分の結論と、察した三峰の気持ちをふまえて、シャニPはあえて自分からは何も言わずに、三峰自身に気持ちを言葉にするよう促している。
促されるまま話し始める三峰だが、切れ切れに紡がれる言葉は、「言葉にすること自体」に痛みが伴うことを感じさせる。
おそらく、優しいシャニPは、そのことも分かっていたのだろう。
それでも「自分で言葉にする」ことが、この時の三峰にとって、そして二人で納得して進むために重要と考えるからこそ、シャニPは話し合うことを選んだのだろう。
……そしてすかさず、「自らの伝えたいこと」でフォローを忘れないあたり、シャニPがシャニPである所以である。
そのうえで彼は、お互いの考えを伝え合い、「ふたりで」決めることを提案している。
このようにLanding Point編は、G.R.A.D.編と【雨に祝福】でも行われた反省会について、その意味合いを改めて確認するようなエピソードになっている。
見方によっては、G.R.A.D.編→【雨に祝福】→Landing Point編も、反省会の「再演」と言えるのかもしれない。何度も同じようなことを繰り返していることは、三峰自身の発言からも明らかだ。
けれど、この「繰り返す」ことにこそ、反省会の意味があるように思われる。
お互いの見たもの・感じたものを伝えて、またそれに対して自分の思いを伝え返す――合わせ鏡のように「伝える」ことを繰り返して、二人の思いをひとつするための過程が反省会であるなら、真面目に、ことあるごとに反省会そのものを繰り返せることこそが、三峰とシャニPの関係性の魅力なのではないだろうか。
さて、くだんのLanding Point編で、結果として二人は仕事を「断る」ことを選んでいる。
だがこれは、決して後ろ向きな選択ではない。そう思われたからこそ、「反省」会という一見マイナスな言葉を、二人の関係性を象徴するものとして選んだ次第である。
過不足なく、自分たちの言葉で、反省会ができるようになったことこそ、【NOT≠EQUAL】以来積み重ねられてきた「アイドルとプロデューサー」という関係性――そして、本当の意味での「相棒」としての、到達点なのでははないだろうか。
結びにかえて:合わせ鏡のむこうとこちら
……いよいよもって、蛇足の蛇足である。
シャニPとの関係から、三峰が気づいた「伝える」ことの重要性は、シャニPに対してだけでなく、それ以外の対象にも広がっていく。
(アンティーカにおいての「それ」は、紹介したいコミュの数が以下略のため、ここではいったん触れないことにします。というかさせてください。。)
ひとつは、上でも少し触れたとおり、アイドルとしての仕事と、その先にいるファンに対して、である。
この変化も、(三峰単独のコミュとしては)G.R.A.D.編あたりが契機となっていると思われる。
まずはG.R.A.D.本選で敗退した場合に交わされる会話から。
そして、すでに何度も紹介している【雨に祝福】の一件で、その意志はいっそう明確化されている。
この「伝えたい」「わかってもらいたい」という流れは、Landing Point編の「新しい一面を見せる」という挑戦へ続いていくのだが、その裏側には、もうひとりの「伝える」べき相手が見え隠れしているように思われる。
そう、ほかならぬ「私」――三峰結華自身、である。
冒頭で紹介した「BRUTUS」コラボ記事と【kaleidoscope-pinball】で「鏡写しの自分」と対面するシーンが描かれているのも、三峰が、向き合うべき相手として自分を再認識したことを示しているように思われる。
もうひとつ、自分自身に「伝える」ことが意識化されている場面として、Landing Point編の前半を挙げておきたい。
「新しい一面を見せる」挑戦をするにあたって、三峰は自身の決意をこれまでないくらい、はっきりと言語化している。
もちろん内容としては外へ「伝える」ための決意だが、それをするにあたって、まずは自分に対して言語化する、ということ自体、新しい試みだったのではないだろうか。
誰かに自分を伝えるためには、まずは自分に自分を伝えられなければいけない……というのは、とても三峰らしい「真面目さ」とも思える。
そして、シャニPと三峰の関係性で繰り返し見てきたように、「伝える」ことは一方通行ではない。伝えたものに対して、相手は「伝え返して」くれるものだ。
【kaleidoscope-pinball】には、そんな「伝え返してくれる自分自身」がついに登場することになる。
まず前提の話として、これまでも三峰が自分自身に語りかけるシーンは何度か描かれている。
たとえばLanding Point編、上記の決意はしたものの、それが正しく他者に伝わっているか不安になって、自問自答する場面がある。
読んでのとおり、自問自答というよりも、ひたすら自問が繰り返され、堂々巡りになっている。このときはまだ、応えてくれる自分はいない。
ところで、【kaleidoscope-pinball】は、三峰が「今」という幸運について見つめ直す話だ。たびたび登場する万華鏡は、「今」ではない別の可能性の世界を象徴するとともに、万華鏡の世界には、「もうひとりの三峰」が登場する。
どちらの三峰の台詞か区別するために、以下では「もうひとりの三峰」を仮に「鏡峰」と表記する。
一見、シニカルに登場する鏡峰だが、その鋭い問いかけは、三峰自身の背中を押すような響きを帯びている。
これに続くのは、「再演」のくだりで紹介した第3話「しあわせになれたら」だ。
鏡峰の――自分自身の問いかけに気付かされて、三峰は、「今」の幸運そのものであるシャニPを見つけるために走り出すことになる。
そして鏡峰3度目の登場では、ついに二人の自分の間ではっきりと会話が成立する。
今までの自問自答とは異なり、【kaleidoscope-pinball】の三峰には、応えてくれる自分がいる。そして三峰も、そんな自分に、同意という形で伝え返している。
鏡峰の発言は疑問形をとることも多く、直接答えを提供してくれるわけではない。それでも、三峰が冷静に今の自分の状況を「確認と把握」するための標を与えている。
【公開時追記】
なお、【kaleioscope-pinball】の次に追加されたS.T.E.P.編において、鏡峰が(再)登場している。
S.T.E.P.編は「アイドルになるまでの物語」であり、これまで紹介してきたすべてのコミュより早い出来事となる。すなわち、初めから鏡峰は存在していたのである。
……であれば、プロデューサーとの関係性を経て、三峰が「伝え返してくれる自分自身」を得た、という本稿の仮説は根底から覆される。どんがらがっしゃーん。
(2022年時点で本稿を公開できなかったのも、このことについて筆者の中で解釈大戦争が勃発したためです……)
公開時点では、その後のpアイドルコミュ【ノー・ライフ】【Good-bye ラブレター】などを通して、なんとなく見えてきた気もするのですが……
今回はとりあえず、ちゃぶ台をひっくり返したまま、恥ずかしながらの結論です。
そもそも、他者と「伝え合う」ことが大切なのは、そこに「自分では見えない自分」が存在するから、だった。
シニカルなくらいに冷静な鏡峰は、まさしく他人事のように、自分=三峰のことを見つめている。だからこそ、三峰が本当の自分の気持ちに気づくきっかけを与えることができるのである。
冒頭、三峰と鏡のくだりで「BRUTUS」記事と【kaleidoscope-pinball】では、鏡の自分との向き合い方が違ってきている、と書いた。
「BRUTUS」≒【雨に祝福】時点は、三峰が「新しい自分の一面を見せる」ということを意識し始めたタイミングであり、その後のLanding Point編で描かれたように試行錯誤の時期でもある。
鏡合わせの自分=伝え合うべき相手としての自分がいることに気づいてはいるが、まだ向き合えてはいない。
「BRUTUS」の写真が、鏡の自分と背中合わせであることも暗示的だ。
これに対して【kaleidoscope-pinball】では、鏡に正面から向き合っている。
伝え合うべき相手として、自分自身を認められた証ではないだろうか。
そしてもちろん、「自分では見えないものを伝え合う」という関係性は、三峰とシャニPのそれが原型となっている。
三峰とシャニPが築いた「素敵な関係」は、三峰が自分自身と「素敵な関係」を結ぶために、必要不可欠なものだったのだろう。
そして「自分自身を認めてほしい」というのは、G.R.A.D.編とLanding Point編を通して、シャニPが三峰に伝え続けてきた望みだった。
やはり二人は、似た者同士というか、なんというか――「素敵な関係」だと言うほかないのである。
【公開時追記】
こんな長い拙文に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
はじめは三峰とプロデューサーの「素敵な関係」を伝えたくて書き始めたのに、なんだか勿体ぶった話になって自分でもドン引きしています。
でも、「伝える」って難しいなぁ…と、変わらず今でも思いますし、そんな難しいことに真摯に向き合っているシャニマスは素敵な作品だと思います。それが少しでも伝えられたらと(キャンペーンに乗っかって)公開しました。
【kaleidoscope-pinball】以降の【ノー・ライフ】や【Good-bye ラブレター】も素敵な話なので、すごく語りたい!
でも、【Good-bye ラブレター】に触れるには、イベントコミュの【ストーリー・ストーリー】とか【かいぶつのうた】とか【月が焦がれる太陽/月】にも触れたいし……とか考えているうちに参照先が膨大なことに。
誰に見てもらえるとも知れぬオタクの早口ですが、書き上げたことに意味があると信じて。
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