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【挫折学】講義⑫「コントロールできないものまでコントロールしようとしてしまう私たち」

「自分でコントロールできるもの」「自分ではコントロールできないもの」が我々にはあります。

米国の神学者であるラインホールド・ニーバー氏は、以下のような祈りを捧げたと言われています。

「主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、 変えられるものを変える勇気と、 その両者を見分ける英知を我に与え給え」(渡辺和子訳) 

つまり、私たちが、自分でコントロールできるものとできないものとを自然に見分けることは容易ではなく、コントロールできないものをコントロールしようとしたり、逆に、コントロールできるものをあたかもコントロールできないものと捉えがちということではないでしょうか。

例えば「自分でコントロールできるもの」としては、スポーツを例にとると、「全国大会に行きたい」という目標を立てたとして、そのためにどこまで頑張るか、努力をするかということは自分でコントロールできるものだと思います。

その場所に行きたい。だからこそ、日々一心不乱に高い強度で練習をする。休みの日は、コンディションを整えるために、スケジュールに合わせて節制して過ごす。そういったことは自分でコントロールできるものでしょう。

当然、練習内容自体は監督やコーチが決めるものかもしれませんが、それに対する取り組み方というものに関しては自分でコントロールすることができます。

一方、出てくる結果は、最終的には、コントロールできないものだと思います。

試合に勝つためにどんなに練習をしたとしても、勝つ確率こそ上げられたとしても、やはり相手がいることですから、必ずしも自分が思い描いた結果を得られるとは限らない。ともすると、レギュラーにさえなれないかもしれない。

要はその試合に出場し、さらには勝ち続けるということは、自分だけでは決してコントロールできない部分なのです。

当然、相手のことやチームメイトの状態も然りです。また、運が味方をすることもあれば、敵になることだってある。

これはもちろんスポーツに限らず、勉強やコンテストにおいても同様ですよね。

しかし私たちは努力を重ねれば重ねるほど、結果も何とか自分でコントロールしたいと思うものではないでしょうか。

「これだけやったんだから絶対に全国大会に行ける!」「このコンペは採用間違いなし!」というような形で考えてしまう。

「あんなに準備をしたんだから絶対大丈夫だ」ということで自分自身コントロールできないものまでコントロールしようとして、それゆえに自分を追い込むきっかけにもなってしまう。

理想は、「やるだけはやった。結果は、もう仕方がない」というふうに割り切ればいいのだとは思いますが、人間そこまで綺麗に次を考えられるものではないということも分かりますし、私自身も割り切れない経験はしてきていますので、努力を重ねてきた方こそ割り切るのが難しいということもよく分かります。

(【挫折学】講義⑬につづく)

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