バレエ小説「パトロンヌ」(52)

ジゼルは身体が弱いのにダンスが大好きで、「大人しくしていなさい」という母親のお小言もどこ吹く風。「明日のために今日を生きる」慎重さに欠けた、この純粋で世間知らずでナイーヴな小娘は、村という共同体の外からやってきた謎の男性に心を奪われてしまう。最初は警戒するものの惹かれていき、この恋は相思相愛なのだと簡単に信じ込む。彼に婚約者がいるなどとは、芥子粒ほども疑うことはないのだ。
ヒラリオンに剣の紋章を突きつけられて「あいつは王子なんだ」と言われても、一つも驚かない。「それがなんなの? 王子であっても彼は私が好き。私も、彼が王子様だから好きになったんじゃないわ!」
逆に、婚約者がいたことは大問題だ。自分のことを心から愛してくれていると思ったから。「実は僕には婚約者がいてね…」みたいな話は一つも聞いていない。彼は隠し事をした。嘘をついた。「王子だから仕方がない」は、ジゼルの頭にない。だから状況を理解できないし、だから狂うのである。

瀬尾まさみは19歳。海外の有名コンクールで幾度か賞を取ったことはあるが、如何せん経験が足りない。「ジゼル」にしても、パ・ド・ドゥだけを抜き出して踊ったことはあれど、全体を踊るのは初めてだ。自分のために用意された舞台であってさえ、初の主演は緊張するところを、今夜の観客はダイアナ・ドーソンのジゼルを期待してやってきた。できることならチケット代を払い戻すかディスカウントするべきだと思って苦々しく客席についた人もいるだろう。完全アウェイの雰囲気の中で、それでも瀬尾は自分らしくジゼルを踊った。その可憐さ、若々しさ、初々しさ、大胆さは、ジゼルのそれと重なって観客にも好ましく映るのだった。

しかし、受け止める甲斐の芝居に、ズレが生じる。互いの心を知り尽くしたDDとなら当たり前の「あうんの呼吸」が生まれない。ひとまわり歳の違うジゼルにとってのアルブレヒトは、対等に恋のキャッチボールができる相手というよりも、何かにつけ先回りして娘を保護する父親のようで、盲目的な恋の疾走には程遠かった。

やがて狂乱の場。名優DDと初舞台の瀬尾とを比べるのはあまりにかわいそうではあるが、技術はともかく心の起伏がまだ体にしみついていない瀬尾は、一つひとつのマイムも「型」のなぞりになる。そんな演技を浴びるうちに、対する甲斐も、畢竟段取り芝居になっていくのだった。

一幕の幕切れ。
ジゼルの母親に追い払われ、いったんはジゼルのもとから離れたアルブレヒトは、それでも彼女と離れがたく、戻ってくる。戻ってきたが、倒れたジゼルを掻き抱きはしない。触ることもできない。甲斐は遠巻きになって立ちすくみ、そしてひざまずいて、手を合わせた。祈ったのだ。

「ジゼル~!」ではなく、「神よ!」。

(なんて正直なの?)
リカは思った。甲斐は正直にアルブレヒトを生きた。
ジゼルをかわいいと思う、かわいがってやりたいと思う。しかし、心がよじれるほどの愛ではない。失って、自分が壊れてしまうほどの恋でもない。甲斐は「アルブレヒト」として一幕をそう生きたのだ。ジゼルの死に直面した今夜のアルブレヒトにとって、「神よ!」は自然な流れだったとリカは思うのだった。(つづく)


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