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バレエ小説「パトロンヌ」(15)

 休憩時間に混雑するバーカウンターや売店を尻目に、ミチルは一人出口へと向かった。エントランス近くに陣取っている係員の目がこちらを見ている。無表情に直立する女性の視線が、すれ違いざまさっと自分を追ったような気がした。途中で帰るようなせわしない客なんて、見たことがないに違いない。そう思うと、ミチルは顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 が、一歩外に出れば、そこはまた異なる空間だ。星と見まごう無数のビルの窓明かり。遠くからこだまするように優しく響きわたる車の轟音。都会の夜の風が、ほてった頬を心地よく撫でていき、緊張し切っていたミチルの体を解きほぐしていった。

(今夜来て、本当によかった)

 足は家路を急いでも、心は至福の時を静かにたゆたっている。ミチルは一層、バレエが好きになった。

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 そんなミチルの脇を、カッカッとハイヒールの音を響かせながら、髪の長い女性がすり抜けていった。そして、たった今ミチルが出てきた劇場へと駆け込んでいったのである。

「今、何番目?」
 チケットを見せながら、一条リカは早口で係員に尋ねた。
「前半は終了しておりまして、ただいま休憩中でございます。あと5分ほどで後半が始まりますので、ご着席をお急ぎ願います」
「寺田甲斐はもう出たの?」
「はい。最初の演目でしたので」
 リカは大きく溜め息をついた。せっかくここまで走ってきたのに。一気に緊張が解け、急に足が重く感じられる。とにかく一回呼吸を整えねば、とロビーのソファに座った。しかし「見逃した」怒りと落胆はおさまらない。体中の血液がぐるぐると巡っているのが、余計にわかるだけだ。
 額の汗をハンカチで押さえながら、リカは花台がどこに飾られているか、ロビーを見回した。若いダンサーたちのフェスティバルだから、何本も立っているわけではない。後援団体や協賛企業からの、平凡な義理花も見うけられる。その中に1つだけ、異彩を放った花台があった。夏の花グラヂオラスを大胆にあしらった、原色の花台である。白い壁にことのほか映えている。

『寺田甲斐さん江  一条リカ』

 リカは、花屋が自分のイメージ通りに花台を作ったことに満足し、ようやく胸のつかえがとれた気がして、少し微笑んだ。

 ブザーが鳴った。開演5分前である。リカはハンカチをしまい、立ち上がった。
(フィナーレにはきっと顔を出す。せっかく来たんだから、見ていこう)(つづく)
 

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