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バレエ小説「パトロンヌ」(16)

 会場全体が、まだ休憩時間の弛緩した雰囲気を引きずっている。リカは席についた。1階の、前から7番目、ほぼ中央である。右隣りの少女も、左に座る中年女性も、そして前列の老夫婦も、甲斐のバレエを見た。そう思っただけで、むらむらと嫉妬がこみあげ、喉を焼く。この席について本当に、甲斐の出番に間に合わなかったのだという事実が重くのしかかり、リカは後悔で胸が張り裂けそうだった。

(5月の「ドン・キホーテ」も見損なった。どうして彼の出る時に限って仕事が入るのかしら。まったくイヤになる…‥)

 「ドン・キホーテ」は、甲斐がローザンヌ・コンクールでソロ・パートを披露した得意の演目だ。ロンドンのオペラハウスで甲斐が主役バジルを踊る日のチケットを、リカは手に入れて早々にロンドン入りしていた。ところが急な仕事が入り、前日になって東京に呼び戻されてしまったのだ。そのステージが大成功をおさめ、甲斐がソリストからプリンシパルに昇格するきっかけとなったことを後で聞いて、余計に悔しい思いをした。

 目の前ではすでに何曲かのダンスが披露されてはいたが、リカの瞳には何も映らず、音楽もまた、届きはしない。そこに甲斐はいないのだ。
「次は『バヤデルカ』よ」
 後ろの女性が囁く声に、リカははっと我に返り、初めて舞台に注目した。

 女性ダンサーは、白地に金糸を織り込んだチュチュ、男性は白いターバン風の帽子に孔雀の羽を一枚つけて、頭に載せている。「バヤデルカ」はインドを舞台とした物語だ。

(あれがニキヤとソロル?)
 ステージ上の2人があまりにもはつらつとして少年少女じみていることに、リカは憮然とした。
(初恋の話じゃないんだから、せめて表情だけでも工夫して、戸惑いとか悲哀とか恍惚とか、大人の味を出してほしいわ。大体、このパ・ド・ドゥだけで『バヤデルカ』の魅力が伝わるわけない。だからガラってのはつまらないのよ)

 ここ2年の間に見たバレエの中でも、「バヤデルカ」はリカにとって特別の位置を占めていた。それは彼女が初めて甲斐に出会ったバレエであると共に、そこに自分の物語を見出した、因縁の舞台でもあるからだ。リカにとってソロルは、情熱的だが優柔不断な長身のやさ男であり、ニキヤは、純粋に愛を信じながらも人生に絶望した大人の女でなければならなかった。

 若すぎるソロルを眺めながら、リカはふと、甲斐が去年ピンチヒッターでソロルを演じたという舞台に想いを馳せた。
(彼はソロルを理解して踊ったのかしら? 2人の女の間で翻弄される男の、ずるさや弱さを、どんなふうに表現したのか……) 
 甲斐は小柄だが、決して幼い印象はなかった。噂では、かなり「モテる」ということだから、20歳になるかならないかであってもソロルの役づくりに十分な経験もあったかもしれない。
 そんなことが頭に浮かび、リカの口元からクスリと小さな笑いが漏れた。左隣りの女性が、失礼な客だと言わんばかりにリカをにらみつける。が、彼女はまったく気づかなかった。リカの心は既にこの場を離れて想像の世界をたゆたい、その眼はもはや、周囲の観客と同じものを見てはいなかったのだ。(つづく)


 
 

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