冬のはじまりの粉雪が掴めなかった、郷愁

子供の頃、覚えている一番古い記憶はなに?家族とお出かけしたとき?兄弟が産まれたとき?すこし考えて私は、冬のにおいを吸い込むように息をした。

わたしは青森県民である。一応そう名乗っている。生まれはもちろんその身に流れる血すらも青森県民としておそらくりんごジュースが流れ続けているのだと日頃から自負している。しかし、幼い頃を思い返してみれば青森県、弘前に住んだのは記憶のない生まれて幾ばくかに過ぎず、そののちに引っ越して幼少期を過ごしたのは宮城県仙台市なのであった。 

 


ひとつあいた金曜を休めば4連休になるからどこかへ行かないか?と婚約者に誘われたのは数週間ほど前のことで、仕事の状況を鑑みれば休めるわけがなかった。それでも私が休まなければじゃあ一人でどこか行ってくるねと足取り軽く行ってしまうのはこの人の性格上明らかで、そんなのちょっと寂しいな、とも言えずに休みを強行する方を選んだ。もともと休みたくはあったのだ、だからそうした。

とはいえ目下炎上直前のプロジェクトを抱えて帰るに帰れず、上司にはひどく嫌味を言われ、後輩にはよくよく指示を出して言い聞かせて0時になる前には家にたどり着いたのだった。のろのろと用意してもらったご飯をたべ、化粧を落とし、必要そうなものをなんとなく詰め、朝私が寝ていたらとりあえず引っ張り起こすよう告げて眠りについた。

秋の仙台。以前舞台の千秋楽のためにひとり、夜行バスに乗って向かった。早朝に暖かい車内から転がり落ちるように降りて、歩道に立った瞬間にあまりの寒さに思わずトートバッグを抱きしめて震えていた。歯の根が合わなくてがちがちと鳴らしながら、わたしはどうしてこんな寒いところにいるのだろうか、どうあってもしあわせな結末なんてない舞台をみるためだけにこんなところに。何をしても、いくら泣いても、強く願っても終わり方は変わらないのに。まだ始まってもいないのに、東京での公演を思い出して少し泣いた。寒いから悲しいのだと、暖かいを越して熱気すらも感じるような漫画喫茶に駆け込んで、コーンスープを飲みながら狭い部屋の中で上着に包まって少し眠ったのだった。ただ、これからくる悲しみのことは忘れていたかった。

今はどうだろう、私は買ったばかりの裏起毛のスウェットを着てきたことを少し後悔していた。無理やりにアウターごと袖をまくり少し汗をかきながら、本当に11月か?と呟きながら、我々は昼ご飯を求めて商店街へ向かった。

とりあえずの気持ちで

仙台では何はなくとも牛タンから始まる。きっと牛タンで終わらせてもよい。商店街の店舗はいくらか人が並んでおり、ならばと電力ビルへ向かうとすぐに入ることができてラッキーだねと話した。噛めばさくっと切れるような歯ごたえで、今まで食べた中で一番おいしいかもしれないと思った。婚約者は、たぶん牛タンよりもテールスープを飲みに来ているかもしれないと言う。それはわかるような気もする。舌を火傷するほどに熱いテールスープはいつだってしみじみとおいしい。

電力ビルの上にある電力ホールから舞台の終演後に、放心したように出て通りを歩いたことをよく覚えている。秋の夕方の仙台はより寒く、踏みしめた落ち葉がかさかさと鳴ってより寂しくなった。私はまた少し、涙を拭っていた。

なんと全部のせで急須パフェ

ふむ、ご飯を食べたならデザートの時間だろうと井ヶ田でパフェを食らう。今日があたたかくてよかった、存分にソフトクリームが食べられるのだから。毎回必ず抹茶ソフトを食べているが、イートイン限定というこのパフェは初めて食べた。とてもおいしいけれど今日が暑くなきゃ厳しい量だなあと話しながら食べ進めた。

「さて、どこへ行こうか」
「ユニクロ」
「え?」
「ユニクロ感謝祭に、行く」
「え?」
「なんかよくわかんないんだけどさ、2泊3日なのに靴下が今履いているやつしかないし、あとニット1枚と下着しか持ってないんだよね」

その大きなトートバッグには何が入っているわけ、と聞かれ、コスメとコスメとスキンケアとヘアアイロンとエコバッグとタオル、と胸を張って答えた。いや、いちおうこれは計画通りであって、渋谷の狭苦しいユニクロになんか感謝祭の時期に行ったら人まみれだしそもそもなんか見づらいしでも欲しいものはあるしどうせなら仙台の大きな店舗で買っちゃおう、という考えだったのだ。ただ、靴下は無印のやつがたくさんあるのにひとつも持ってこなかったんだ。前日に用意しておかなかったものはすべからく忘れるようにできている。いつも通りに。

アエルの大きなユニクロは平日なこともあってそれほど人はいなかった。気になっていたアウターをゆうゆうと試着し、今日から発売のなにやらおめめが刺繍してある靴下とマメクロコラボのタビハイソックスを買った。このタビハイソックスをとても気に入ったのだけどもう東京では在庫がほとんどなく、なぜあの時3足くらい買わなかったのかと後悔することになる。

その後GUにも行って、ずっと買うか悩んでいたやわらかなピンク色のカーゴパンツを買い、やっていることがまるで旅行先じゃないなと笑っていた。そうしているうちに夜になったので、海鮮がおいしいと言う居酒屋で夕食とした。

最近やたらに天ぷらがおいしい、老人会
みそ

海鮮も野菜肉も米までうまいので、じゃあ仙台って何を食べてもおいしいのでは?という結論になった。味噌おにぎりの中には梅が入るということだったので丁重に抜いてもらうようお願いし、安心してプレーンな味噌おにぎりを食べることができた。けれどここだけの話、味噌おにぎりは焼かないほうがしょっぱくてしっとりしてておいしいと思っている。手がベッタベタになるところもいとしい。

自宅では部屋を分けているのだが、ホテルでは久々に婚約者の隣で眠った。距離の近いダブルベッドではあまりにうるさく、起きてからもう少しで息の根を止めるところだったと言うとひどいなぁと笑っていた。まあまあ本気だぞ、こちらは。

早起きした

翌朝。早起きしてレンタカーを借り、塩釜の市場へと向かった。眠いし腹も減っていたのでふにゃふにゃとしていたが、車から降りたらしゃきっとすることができた。だって海鮮丼が待っている。

どん

前日に朝から海鮮丼は食べられるかという問いに、寝起き5秒後でもいけますと答えた。正直熱々の赤身のステーキでも食べられるとは思う、やたらに健康なので。ともかく、美しく盛り付けられた海鮮丼を写真におさめるのもそこそこに、わたしは誰よりも先にいただきますと食べ始めていたのであった。これなんだろね、白身魚の何か、なんかさかなだねとまぬけの会話をしながらおいしいおいしいと食べていった。そのうちにたっぷりと盛られた丼もすぐになくなって、ゆっくりと味噌汁を啜って満足した。

海鮮丼を食べ終えて市場の中を見て回るが、やはり売っているものは生ものが多いので今日帰るわけじゃないからなぁと買うのをぐっとこらえた。欲しかった本当は、でっかいマグロのサクとかさ。かにとかさ。婚約者は牡蠣を食べるか悩み、でも言うほど好きじゃないんだよなと結局やめていた。そんなに悩んでたの好きじゃあないのかよ、と言った。そして出発前にコーヒーを買おうと市場の一角にあったコーヒースタンドへ向かう。やたらにいい豆らしく一杯の値段が表参道だなと思う。受け取りをまかせた、周りをもう少し見て回ってくると告げ、ひとりで少し歩くことにした。

ひとつの区画がお店になっているようだ

えいひれ、ホタテ貝柱、さきいか、いかくん……その他わかめやら乾物と珍味が置いてある店を見つけて内心ではしゃいだ。これもあれも捨てがたいと手にとって、店主のおじさんがおや、という顔をしているのが目に映った。そしてレジを見て、私は現金を持っていないことを思い出したのだった。

「婚約者くん、おかねちょうだい」
「なんなの急に……」
「ペイペイに対応していないんだよ、あのお店は。今物理でお金が必要なんだ。もしくはセブン銀行をここに出してよ」
「おやつ買うからお金くれ〜って言う小さな子供なの?」
「じゃあわかった。……ようし兄ちゃん、ジャンプしてみな、金持ってんだろう?」

小芝居が始まろうとしていたが、わかったからとっとと買ってきなさいと3000円を手渡され、わあいとまたお店に戻った。さきいかとさきいかととろろ昆布。さきいかは実家のお土産のつもりでふたつ、とろろ昆布はおにぎりをやってみたいなあとわくわくしながら手に取った。ください、とおじさんに手渡すと650円のさきいかは二つで1000円でいいよ、と言われてありがとうございまあすと大きくお礼を言って、スキップをする寸前で自制して戻った。その時に袋をかかえて帰ってきたわたしの顔があまりにも嬉しそうだったのだという。300円のおまけだよ300円の。これは大きいよ。そう言って笑った。今までに友達や家族と旅行に行って、市場に寄ったけれど、これほど喜んでる奴は初めてかもしれないのだと彼も笑っていた。

もみじ

高層ビルのオフィスに閉じこもって、もしくは自室の座椅子に沈み込むような日々を送っている。途中寄った神社ではどこも綺麗に紅葉していて、それを喜びながら七五三を祝う一家の笑顔が眩しかった。わたしは落ちていたもみじをひとつ拾いあげて、伸びすぎた爪先でなぞっていた。こんな形だったか、もう思い出せないほど久々に触れた秋をまたそっと地面に戻した。

寒い冬、わたしはわたしの背をゆうに超えて燃え上がる炎の柱を見上げた。隣に立つ誰か、おそらく母の手を握りしめながらわたしは、じっと炎を見つめていた。それが私に残る最も古い記憶だった。どんと祭、お正月飾りやお守りを焼いて無病息災を願うのだという祭りが全国にないことは東京にきて初めて知った。我が家は信心深くはないけれど、お正月飾りは神社に持っていこうか、という気分でもって毎年家族ででかけていたのでその記憶がいつのことなのかはわからない。けれど私の身長を超えてこんなに大きくてさ、と聞いたらあれはそんなに大きな火じゃなかったよ、危ないじゃないと家族に言われたので、相当に私自身が小さな頃だったのだと思う。どんと祭の帰り道には玉こんにゃくを買ってもらえた。姉達がかぶりつく中であなたは猫舌だからね、となかなか渡してもらえなくていつもとてもうらやましかったことを覚えている。その頃から猫舌は大人になれば治るからねと言われたけれど、それならば私はまだ子供のままなのだろうか?

江ノ島っぽいな
飾られていたかわいいやつ

松島に行き、観光地としての雰囲気が江ノ島だな、と呟いた。海があって、海沿いにずっとお土産屋が広がっていて。来たことは一度もなかったはずだけれど久しぶり、とすら思った。そして遊覧船に乗る人たちを見つめ、あの薄着だと海の上では凍えるんじゃないかと話した。その後は温泉に入りたいという婚約者の希望から鳴子温泉に向かった。昼間の時間に風呂に入る人は多くなく、自分とあともう一人の先客がいるだけで露天風呂に贅沢に浸かった。やや強くなった雨がめかくしの柵を叩き、濡らしているのを静かに見ていた。

ホテルは同じく仙台駅前に連泊する予定だったので市内に戻ろうとまた車に乗り込む。その中でもし間に合えば昔によく食べていたおまんじゅう屋さんに寄ってほしい、と頼む。もう閉店間近になってしまうのかもしれないけれど。帰り道は雨が上がったり降ったり、虹が見えたりしてなんとなく旅の終わりを予感させるような夕方だった。寂しいなぁ、そう思っていたらうとうととして、そのうちに眠ってしまった。

目覚めたらもう市内に入っていて、細い道と坂と家が並ぶ風景になっていた。あんまり頭が揺れるものだから起こすか悩んだ、そう言われてたしかにやけに首が痛むと狭い車内で伸びをする。伸びないな、あまり。本当にこの道なのか、ナビの現在地が少しズレていてわかりづらい、とやいやい言いながら進む。そうしているうちに閉店の30分前に目的地に着くことができた。

結論から言うと、お店は本日売切れの貼り紙がしてあってもう閉店していた。私は肩を落として、家族に見せようとひとつ写真を撮って、踵を返した。そうしてまた車に乗り込むと、目の前のやさしい色をした建物が目に入った。

「ここ、知ってる」
「ん?」
「通ってた保育園だ」

ピンク色のタイルの壁、幅広の階段。あの時あんなに広いと思って走った園庭は、都会の公園ほどに小さかった。憶えている、かけっこをしてめずらしく早く走れていたけれど、ひとつ後ろを走る友達が転んでしまったのが横目に見えて戻って大丈夫?と聞いたこと。あの子の黒いトレーナーが砂まみれになって、いつも姉たちがしてくれるように優しく払った。あの頃から、特に運動に関しては諦め半分で闘争心がなかった。お昼寝の時間ではぐずってずっと先生がトントンしてくれる子が羨ましいと思った。私はタオルケットをかければすぐに眠ってしまうのだから。家の前の急な坂は冬にはいつも凍りついて、上ることができないバスのタイヤがきゅるきゅると音を立てていた。私は母とその横を、雪が降り人が歩き、夜中のうちに凍るということを繰り返し続けて氷の階段と化した歩道を慎重にゆっくりと降りていた。凍った道も雪の道も、どうやって歩くかなんて習わなくても自然とわかっていた。

姉からのおさがりのキティちゃんの描いてあるミトンは、紐で繋がれていたから何度も絡まってしまってそのうち紐がちょん切られていた。そうするとなぜか左右反対にはめていて、キティちゃんが手のひら側にいるよといつも直されていた。今も仙台に行けば必ず食べる抹茶ソフトはあの頃は食べられなくて、いつもバニラかチョコを食べていたと思う。もしくはセブンティーンのアイス。ストロベリーコーンズのおまけのお皿はポップでかわいくて、お誕生日の日にだけ使った。私には重くて使えなかったけれど、マグカップもちゃんと全員分もらった。パン屋さんの自動ドアに母が目を離したすきに指を挟んで大泣きして、店員のお姉さんが慌てて絆創膏をくれた。とりあえず絆創膏を貼って、大丈夫だよ、と言われれば、泣き止むこどもだった。よく、憶えているのだった。

きっと思い出さないようにしていた。あんまりにも仙台が、楽しくて優しい場所だったから。東京に引っ越して私は人見知りで本ばかり読んでいる子供になってしまった。悲しくてもなるべく泣かないようにした。皆、もっと悲しい思いをしていたから。わたしは誰よりも悲しみが少ない立場だった。引っ越しの前後のことを覚えていないのは、もうその時に悲しい記憶は決して思い出さないと決めてしまったからなのだと思う。今も悲しいことは考えないように忘れるようにしている、してしまう。わたしが一度決めてしまったことは、いつだって守られる。

助手席で気づかれないように少しだけ泣いて、夜ご飯を何にしようか話した。ボリュームがある日だったからさらっと済ませたいねと意見が一致した。

末廣ラーメン

いつも目の前を通り過ぎて、食べてみたいなぁと思っていたラーメン屋に入った。外が寒くなってきたけれどドアが開いたままだったのでまるで野外だなと言いながら熱々のラーメンをすすった。横に座っていた酔っ払いのおじさんがむにゃむにゃと言いながらチップを置いていこうとしたので、アルバイトのお兄さんと押し問答をしていた。結局負けたお兄さんがなんか3000円もらいました、と言って他の店員と笑っていた。会社の横にあったらすぐ行ってるなこのラーメン、そう言ってその日は終わった。

最終日の朝だ

翌朝、仙台はよく晴れて、よく寒かった。最終日の予定を決めなかったのでもう一度あのおまんじゅう屋に行ってもいいかな、と起きてから告げた。いいよ、バスに乗れば行けるみたい。一番に行こうと決め、ユニクロで買ったもふもふの新品のフリースを着込んで出発した。土曜午前の駅前は結構人が多くて驚く。そしてデッキから見えるあの下のバス停にはどうやって行くのかと、ダンジョンをさまよう勇者のように行ったり来たり、降りたり登ったりをしてしまった。そんなことを繰り返していると、こんなにも晴れているのに細かい氷の粒のような、粉雪が降ってきていた。雪だ!そうはしゃぐのは私達だけで、ここにいるすべての人たちには何も変わりのない毎年の冬の日のようだった。粉雪をつかもうとして手を伸ばしたけれど、風に煽られてまた頭上を舞っていく。東京に降る湿った重い雪とは違うのだな、そう思ってせめて写真に残そうとしたけれど、上にある通り晴れた仙台駅だけが残った。そしてそうしているうちに雪はやんで、元通りの風景を取り戻していた。

バスに後ろから乗る。パスモをピ、とタッチして席に座った。昔、幼かった私は乗るときに整理券をもらえなくて、正確にはもらう必要がなくて、どうしても券が持ちたいのだと言って母の券を持たせてもらっていた。なにか、薄い青のインクで数字が書いてあるそれをよく眺め、大事に持ってバスに揺られた。バスの外の景色はあんまり見えなくて退屈だから。今は婚約者が間違えて取ってしまった、テトリスみたいな模様の入った整理券を見つめていた。

乗るバスを間違えて少し遠いバス停で降りることになった。坂だらけの道を歩いて、GUでカーゴパンツを買っておいてよかったなと思った。遠慮なく歩いてゆける。10分ほど歩いて、昨日通った道にたどり着いた。今日はあるかなぁ、そもそもお店やってるよね、さすがに?不安になりながらも無事に着くことができて、壊れていると書かれた自動ドアに手をかけて力をこめて開いた。

一歩足を踏み入れるとぶわ、と音がするような気さえする石油ストーブの熱気を感じた。お店の中は雑然としていて、唐突に置かれたケースにひっそりと息をするようにおまんじゅうが並んでいる。壁には近くの小学校から近所のお店めぐりをしたあとのお礼の言葉が貼られている。店主と思われるおばあちゃんが近くのテーブルで何か作業をしていて、ゆっくりと私達のことを見て、いらっしゃいと呟いた。私はケースの前で少し悩んで、おまんじゅうを5つくださいと告げた。お金を支払って、紙袋に詰められてさらにビニール袋に入れられたおまんじゅうを手渡されてから、やっぱりここにあるだけ全部くださいと言おうかと衝動的に考えて、やめた。ただありがとうございますと、笑顔で答えるだけにして店を後にした。

「買えたよ」
「うん」
「……もしかしたらもうこれが最後かもしれない」

口に出せば悲しかった。すこしずつ朽ちていくような空気がそこにはあって、きっとまばたきしている間になくなってしまうんだろうと思った。そしてここのところ、何度も仙台に足を運んだのに今日まで来なかった自分を責めた。あんなに好きなくせに。きっと、和菓子のなかで一番好きなものはと聞かれたらまっさきに名前をあげるくせに。帰りのバスを待つうちに風は強くなってまた雪が舞いはじめた。近くのローソンに入って待つかどうか聞かれ、首を振った。今はまだ、しんと寒いままでいたかった。

大切に食べた、一番すきなおまんじゅう

たくさんたくさんお土産を買って肩がちぎれると笑いながら新幹線を待った。2泊3日の旅行はあっという間に終わろうとしていた。帰りたくないねぇ。そうだねえ。もっと切実に、わたしはもうどこにも帰りたくなかった。どうしてこんなに居心地のよい仙台を離れたりしなきゃならないんだろう。だって人がとても多いアーケードも駅前も、誰もぶつかってきたりはしなかった。いかついダウンの兄さんもファーのショートコートを着たお姉さんもみんなが少しずつ避け、私も避けた。誰もが、どこに行くにも急いでいないように見えた。生き急ぐような人はひとりもいないように見えた。もしかしたら、そう見えるだけなのかもしれないけれど、時間がゆっくりでも早すぎもしない、ぴったりとちょうどよく進んでいるように感じていた。

死ぬなら仙台で死にたいなと思った。あの入り組んだ坂道のどこかに埋めてくれないか。そうやってわたしが悲しむ新幹線の座席の横で、彼はわくわくとニューデイズで買った日本酒を開けていた。うまいよ。それを見てふは、と笑って、こういうときに一緒に辛気臭く悲しむようなやつじゃなくてよかったと思った。わたしの悲しみは、すべてわたしだけのものでいい。仙台にいたかった、ずっと。でも仙台にいればこの人とはすれ違いもしなかっただろう。きっとまた来るよと思って、ゆっくりと東京に向けて新幹線は動き出していた。

ホテルに帰る夜の道で、冬のにおいがするねと言った。東京に生まれて東京で育つ彼は、北の民がよく言うけどわからないんだよな、と呟いた。息を吸い込んで、もっと大きく、もっと。そうして肺の奥と鼻の上のほうがキンと澄んだら、それが冬だよ。



残業だらけの日々に戻り、思い出を辿るように書きました。今は京浜東北線のなかで泣きながらマスクの中では鼻水を垂らして書いているので、目の前の知らないおじさんは怪訝な顔をしていました。
ハッピー・クリスマス。

すしすきー Advent Calendar 2023 に寄せて。

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