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読書雑報

言葉による残酷表現について

①澁澤龍彦翻訳全集5『悪徳の栄え』

【厳重注意】本稿には残酷な表現や変態的な性表現が多数あります、苦手な方、未成年の方は絶対に読まないでください。また『悪徳の栄え』終盤部分の引用が多数あるため完全にネタバレです。その点にもご注意ください。

 今や我々は、ネットをさほど潜ること無く様々なグロ画像・グロ動画を見ることができる。例えば、チェチェン紛争あたりから多く流通し始めた凄惨な殺人動画というジャンルも、ISISによって巧みに演出、編集されたイメージ的な処刑動画によって表現としてのひとつのピークを迎えたかに見えたが、最近はむしろかなり画質の悪いハイチやブラジルの麻薬カルテルによる競合グループまたは裏切り者の処刑動画や、その死体をバラバラにして並べ直した画像(記録し、見せしめとして競合グループに送られる)などへと、刻々とそのトレンドを変化させているような状況だ。
 今回何冊かの書物、そして或るサイトを通して考察するのは、果たして現在このような時代において言葉による残酷表現にどれほどの価値、いや効果があるのかという点である。澁澤訳『悪徳の栄え』、生田駅『閉ざされた城の中で語る英吉利人』そして2000年代に失われた謎のサイト『FGMに関する緊急通信』を取り上げ、現時点での評価をまとめていきたいと思う。ついてはその性質上本稿全体を18禁に設定しようと思ったのだが、運営に問い合わせたところ現状その機能はなく、あくまでアップされたものに対する運営の評価として「18歳以上向け」の表示がなされるとのことだったので文頭に厳重注意を載せ、併せて導入部以外の残酷な表現や変態的な性表現が登場するパートをすべて有料化することによって、より注意を喚起することとする。
 さてまず澁澤龍彦訳『新ジュスティーヌ』初版あとがきから始めよう。

 一般に、サドの長編小説は退屈だといわれている。わたしは、このサドの退屈の魅力(?)なるものを出したいと思って、第十三章から第十七まで、飛ばしたり抜かしたりせず、ほぼ忠実に訳出の筆を進めてみた。その結果が、今度のような訳文となった。読者諸氏よ、どうか楽しく退屈なさってください。(河出文庫版257頁)

 1965年、日本へのサド紹介の黎明期に澁澤は、初心者のサド鑑賞においておそらくは最重要と思われるポイントについて我々読者に語りかけている。現時点から遡行的に見れば、彼が何を言わんとしているかは明らかだが、ここでは退屈という概念の全てが改めて秤にかけられている点に留意しよう。
 この『新ジュスティーヌ』に限らず澁澤によるサドの長編小説の翻訳は全て抄訳だが、それはサドが「退屈」であるから削られたのではなく、全て「退屈の魅力(?)なるものを出したいと思って」抜き出された部分なのだと考えよう。そしてこの「重要な何かだけが抽出された構造」の起源、オリジナルはサド自身にあると思われる。澁澤訳『ソドム百二十日』初版あとがきを見てみよう。

 『ソドム百二十日』の構成は明らかに『デカメロン』あるいはナヴァル女王マルグリットの『エプタメロン』から来ている。作品は大部な序章(翻訳にして百八十枚)と日付を明記した日録形式の四部に分かれ、十一月が「単純な情欲」、十二月が「複雑な情欲」、一月が「罪の情欲」二月が「危険な情欲」と銘打たれている。
 序章は四人の老遊蕩児に関する詳細な分析と、四人の女性、およびその他犠牲者になるすべての人物の、綿密な肖像を描くのに費やされる。物語が肉づけされ展開されるのは、この序章と第一部のみで、他の三部は細分化され番号を付された草案、一種のプランをつくることだけで終わっている。時間の不足ないし紙の不足が原因であろうか。しかし、そのために、かえって『ソドム』は系統的に観察し分類した性倒錯現象の集大成、科学者の目でとらえた性病理学試論といった性格をおび、クラフト・エビングやフロイト以前の、貴重な資料ともなっているのである。(河出文庫版309頁)

 引用部分後半 「であろうか」と疑問形の後、すぐに「しかし」と続けている。彼は書かれた時の事情はともかく現存する『ソドム』の構造自体は機能している、効果を上げていると主張しているようだ。そして彼によって訳出されたのは最終的に序章のみ。その構造を極限まで単純化することによって機能を先鋭化したとでも言うのだろうか。「退屈の魅力」は、その抜き出された部分に存在するに違いない。

 あるいはこうも言えるだろうか。サドの長編におけるエロ・グロ表現は多くの読者にとってはいずれも冒頭間もない時点で既に針が振り切っていると言うか、漸進性をもってドラマを盛り上げていこうというような姿勢とは見えないだろう。その起こっている物事の「強度」を表す形容は物語の開幕早々すでにアポリアを迎えているかに見える。そしてそのアポリアはその後あらゆる順列組合せで繰り返されていくだろう。それを導き出すための『ソドム』序章、その肩透かしを喰らわされたかのような読後感は以前どこかで味わったものとよく似ている。フッサールのいくつかの論文である。「狙いと方法は説明した、予防線も張った、後はやりたまえ」というような終わり方、まるでプログラムのような、マニュアルのような。澁澤のいう「退屈」とは大体ここら辺にあるものではないのか。

 さて本題に入る前にもうひとつ予防線を張っておきたいのだが、何を残酷と感じるかについてはやはり個人差があるということだ。それを言ってしまうとこの記事自体存在し得なくなってしまうような話ではあるが、それでも任意に取り出されたひとつの例から直観的に得られるものは幾ばくかあるはずだし、記述することによって明らかになるものは、それを意識し考え始めるひとつのきっかけとなるに違いない。つまりこの記事自体もひとつの小さなプログラムとして機能させることもできるのではないか、と思うのである。

 以上前置きが大変長くなってしまったが、今回澁澤訳サドの中から残酷表現の最たるものとして選んだのは『悪徳の栄え』のクライマックス、ノアルスイユが考案した異様なイベントの最中、ジュリエットが引き取ったドニ夫人の娘フォンタンジュが徹底的に破壊し尽くされていくシーンである。これには1960年に発禁となり1964年以降削除された部分を含むため、削除箇所全文を補遺として収めた『澁澤龍彦翻訳全集5』を出典とする。
 まず該当箇所の少し前に、非常に不思議なシーンがある。其処から見ていこう。

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