バタイユ周辺①
以前友人と近所の小料理屋で食事をしながらパラパラと「エクリチュールと差異」を読んでいてプッと吹き出したところを指摘されたことがある。「こんなところでデリダを読んで吹き出すな」というわけである。説明しよう。
ジャック・デリダ『エクリチュールと差異・下』法政大学出版局
第9章『限定経済学から一般経済学へ』三好郁朗訳
1966年に『アルク』誌バタイユ特集号に初出のこの論文は、サルトルのバタイユ批判『新しき神秘家』への反論として書かれた経緯があるようだ。
「みな間違っている」言い切りである。ことアルトーとバタイユに対してデリダの感情は「愛」と呼ぶに相応しい。この二人にはあり、デリダ自身にはひょっとすると無いかも知れぬ狂気と、それがもたらす天恵とも言うべきインスピレーションに対する深い憧憬が見えるような気もしないでも無い。
しかしデリダはヘーゲルの《支配》とバタイユの《至高性》の間に存在する根元的な差異を指摘する。
このポスト構造主義の代表的著作の終わり近くに来て、我々はデリダが哲学そのものを秤にかけようとしているのを目撃しているようだ。意味の認知のため、真理のために生を危険にさらしながらもそれを保持すること。獲得した意味を享受すること。そして連綿と続いていくそれら意味の歴史。その一切を意味への隷属という「限定経済学」の枠内に封じ込めようとする一人の男の存在について、デリダの表現は「詩的」ですらある。
続く数段の「一労働たる哲学」に対するバタイユの「笑い」についての情熱的とも言える論を一気に読みながら、その痛快さに私は吹き出した。これが「小料理屋デリダ爆笑事件」の顛末である。
そうだ。無である。徹底的な放蕩と泥酔の果てでバタイユが見つめていたもの。そしてその「不可能なもの」を眼前に、常にバタイユは笑っていたはずである。
このデリダの論文は、あるいは「笑い」そのものの極限を指し示そうとする試み、と言えるのかも知れぬと思った。