見出し画像

排泄物を人に見せる必要性について

食べると出すように、読むと書きたくなる。観れば話したくなる。
だからこれは、単なる生理現象で、排泄行為なんだと思う。
書くということは、必然であり、自然現象。

その排泄物たる自分の文章を、人に読ませることに抵抗があった。
質問されたり、必要とされている(つまり言い訳がある状況)ならば出してもいい。
が、求められてもいないのに自分の書いたものを一体なにゆえ公表するのか。
しかも世界に、不特定多数に向けて。

誰かに伝えたいことがあるなら、友達に送ればいい。
家族に言えばいい。
知らない誰かに向かって話したいことなど、私にはないはずだ。
だから編集者という職業を選んだんでしょう??

…なんて、面倒くさい自意識をずっと抱えていたんだけど。
去年50歳の誕生日を迎えて、その数字にじわじわと私の自意識は変えられてしまった。

たとえば服装とか。
少し前までは「これは若作りでは?この年でさすがに痛くない?」ということを気にしていたけど「いや、もう絶対に若く見えないから逆に大丈夫!」と思うようになってきた。
そもそも美意識として、派手なおばあちゃんやおじいちゃんが大好きで、憧れていたのもある。
40代でガーリーな服装をすると、若く見られたいと思っていると勘違いされるのでは!?と怯えていたが、50代のガーリーはOK。だって初老だもの!!
初老でガーリーな恰好してる人、最高。

老いを手にした今、求められてもいない文章を見知らぬ人に見せる気持ちも俄然沸いてきた。

いまどきの若者というのは、そろいも揃って礼儀正しい。
若手の編集者が、単に長く出版社に勤務しているだけの私を先輩編集者と呼び、お言葉を聞きたいと会いに来る。
何も考えず黙って見ているだけで、逆に崇高なことを考えているに違いないと勘違いする者まで現れた。

「たいした中身もないのに、理由もなく文章を公開するなんて…」
ずっとそう思って来たけれど、老いを手にした今は違う。
中身がないということを、積極的に発信していかねばならない!

老いを手にした今、たれ流すことにこそ意味があるのだ。

あー惚れ惚れするほど、長いばかりで中身がない。
薄っぺらい文章を、これから外に向けてガンガン書いていこうと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?