【雑記】運について考えることはあるだろうか――ゲームに運はつきもの

はじめに:運について 

 運について考えたことはあるだろうか。
 人生単位で考えると、自分は運が良い方、悪い方いろいろあるだろう。
 とはいえ、運にはいろいろある。就職するときにタイミングよく良いところに行った。受験のときにギリギリ合格できた。そんな「人生の大きなイベントのときに運が良い」人もいれば、「毎年おみくじ大吉出る」「くじびきで良い景品が当たりやすい」「ガチャ運が良い」という日常的な運が良い人もいるだろう。
 研究所で話してみると、ガチャ運がものすごく良く、いろいろな物事のタイミングが良い研究員がいた。これを書いている私はガチャ運はたまにしか起きないが、大きな運も小さな運もそこそこある人間だ。
 そんな私にはある信念、宗教とも言っていい考えがある。それは「運はプラスマイナス0になる」というものだ。つまり、私の運が良いのは、人生のいろいろな面で不幸なことや嫌なことがあったから、それを帳尻を合わせるために良い、という考えだ。
 おかげで日常的にいろいろとありがたいこともある。特に、ゲームとか。

ゲームと運

ゲームで運といえばカジノ

 ゲームと運は切り離すことができない。
 ポケモンで色違いに出会うとき、ギャンブルなどでゲーム通過を稼ぐとき、ラッキーを出すとき。
 いきものと出会うとき。
 いろいろないきものに出会うときには運が必要になる。

ぼくのなつやすみ2

 例えば、この場面。『ぼくのなつやすみ2』の虫取りをしている場面であるが、ここに出る虫はランダムで二匹くらい出てくる。しかし、その虫が未発見のものが出るかどうか。それは運しだいだ。PSP版では虫にNEWがつくため、そのNEWの表示が出るかどうかを出入りして確認する→でなければリセットしてその日をやり直す。このときに、他の虫を手に入れていた場合、リセットしてもその虫を手に入れられるかなどを考えなければならない。これを考えているときはカジノゲームで勝ったときに「チャレンジに勝てば倍手に入るが、負ければ勝ち分を失う」という気持ちに似ている。賭けだ。それに勝つかどうかはやってみないと分からない。

みんなの昆虫大図鑑

 ゲームボーイのこのゲームでも運が必要になる。捕まえてみるまで、未発見の虫かどうかわからない。それを出入りして未発見の虫を探すことを続ける。というか、それしかない。これは本当に運でしかなくて、レアな虫であれば本当に稀にしか見つからない。レアな虫だけはどこに出るか攻略情報が出ているので、それについてはありがたいけれど、出る確率が低すぎる。今でも見つかっていない虫が何匹かいる。

ゲームにランダムはない?

 実はゲームにおいて、「完全なランダム」というものはない。これはプログラミングをちょっと勉強した/授業を受けた人であれば知っていることであるが、プログラムというものは書いたとおりのことを実現できるというものだ。そのプログラムに「ランダムで出現して」という命令は作ることがあまりできない。
 ではどうやっているのかというと、「今の時間の秒数を10で割った余りを値として出す」という風に、作った人が何らかの基準を用いてランダムになるようにプログラムしている。学校の先生とかが「今日は2月の22日だから22番(もしくは2月の2で割って11番/先生の年齢が35歳だから引いて13番)」と指名することと、なんとなく先生が「15番」と指名するのと、どっちがよりランダムかという話である。後者については本当に法則の読めない現実世界の「ランダム」と言っていいかもしれない。しかし、前者はある程度の法則を予想することができる。今日の日付、先生の年齢などの基本情報を押さえれば、自分が当たるか当たらないかを予想することができる。
 これを利用してゲームプレイすることを「乱数調整」と言う文化がある。しかし、これはよっっぽどゲームでそういうことを狙うことが好きな人であればやるけれども、普通の人はそこまで考えない。
 つまり、コンピュータの中身のことを考えなければ、ゲーム上の運は現実世界の運と変わらないと言える。

改めて:運について

PSYCHO-PASSの登場人物、槙島聖護

 『PSYCHO-PASS』というアニメに槙島聖護というキャラクターがいる。そのキャラクターが本を読むことについてこう述べている。「本はただ文字を読むのではなく、自分の感覚を調整するためのツールでもある」。
 これと同じことがゲームにも言える。ゲームで運がないときがある。そのときは無理に運を試すことはしない。そのときは運がないときだから、ないものを引き出そうとしても得られるものはあまりない。
 運も自分の能力であると考えると、やはりそれをどう自分が使うかが大事だ。運が良いからと、運試しをしまくるも自分。運が悪いからと、堅実にデジタルに取り組んでいくのも自分。
 要は、使いようであるということだ。ということで、私は私の信念で、次のゲームのために善行を溜めておこうと思う。

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