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意図的な忘却とクラウド的な共有知

 睡眠と運動さえ担保すれば脳のメモリは一定の容量と処理速度を持っていると感じますが、保存容量の制限はあるため、最近は情報を「意図的に」忘却することが脳を最適化させるという仮説を検証しています。現在の私の脳は、SSDのような高速なフラッシュメモリ性能ではなく、HDDの磁気ヘッドのように意図的にヘッドの位置を動かし適切な情報を保持し続ける必要があると感じています。IQ検査の数値と記憶力は大して結びついてないことも実感したので、記憶という機能は意図的に解決したいのです。(WAIS-IVでFSIQが標準偏差で上位0.1%,特にVCI,WMI,PSIの数値が高かったものの、これが脳の最大処理なら非常に困るという体験がありました。)

 理想としては、外部メモリを活用して脳のメモリを効果的に利用することが最適で、電脳化の世界観は個人モデルで見た時には理想の世界です。ハンナ・アーレントが指摘したように、システムに無批判に従うことの悪徳は理解しているのでソリッドステートな社会になりそうでしかありませんが、情報の取得や処理速度の向上のための最適化も考慮すると、自分なりのシステムを新しく構築する必要があると考えています。勉強しないのは勿論、幼少期に獲得したバイアスの積み重ねで残りの人生を生きるなんて恐ろしすぎますし(あくまで自分は)、一部捉え方によってはシンギュラリティに到達している事柄やツールもあるので、少しずつ整理していきます。

 私は「意図的に忘れる」ことや忘れたものを適宜取り出す為に、SNSを活用した情報の外部保存や読書内容を敢えて記憶し過ぎない技法には慣れてきましたが、このプロセスを電子デバイスや本棚に頼らずに行える方法を模索しています。また、人との対話を通じて情報や経験を共有することは、アナログなクラウドストレージのような役割を果たしていると感じています。同じ文脈を持っている人間とは、共有クラウドが存在していて、自分が忘れても誰かが思い出してくれるので、これも非常に便利で有難いストレージです。記憶の歪曲化は避けられませんが。(唯、複数の記憶をクラウド処理した方が中央値は得やすい)

一般的な知識や情報は、オンラインリソースやAI技術を利用して簡単に取得できるので、もはや記憶力の必要性を感じることはありません。唯、アートを通じた深い考察や体験に基づく知識とそこから発露する独自の文脈は、人との対話を通じて共有し、その上で時に忘れてしまうことも重要です。さらに、情報の共有には多様なレベルや段階があり、言語や体験、さらには価値観や前提知識の共有度合いによっても大きく異なります。

 結論として、多くの情報を取得・保持する必要性を感じる人が少ないことも認識する中で、私自身も日々、固定的なバイアスを取り払い、リテラシーの次元と見える世界観が異なる他者と、共有知を互いに楽しめる他者との関わりをより重視する方向へと思考を進めていると言えます。個人で処理できることはさして価値がなくなっており、果たして「賢さ」が価値を持つ時代はいつまで続くのかという感覚。

 身の回りで対話している限り、知識の蓄積で生きてきたような人は似たような感覚を持ち始めている人が増えていると感じるので、もう少し整理して体系化しておこうと思います。

 共有知(識)は代替可能ですが、モチベーションの共有はまだツールで代替できない領域なので、そうした意味での共有知を特に大切にしていきたい。

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