社会的にも愛される側だった小学生の頃に読んだフロムの「愛するということ」を、社会的には愛する側に立つ程に歳を取ってからまた読み返した日の記録。
小学生の頃、「愛されているか」という質問に即答できなかったことから何故かエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んだ。きちんと意味を理解できる頃には中学生になっていたが、10数年ぶりに読み返すとやや感慨深いものがあったので、その記録と、人が実存することの意味とを振り返るための日記。同時に、フロムといえば「自由からの逃走」という印象が強いので、戦時中の歴史を振り返りながら80年前に思いを馳せる。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」と「愛するということ」は、現代人が直面する自由と愛という深遠な課題を巧みに探求する優れた哲学的著作である。マルクス・ガブリエルの新実存主義は、「存在」という概念を再評価し、存在と意識の関係性を理論化している。この観点からフロムの二つの作品を考察すれば、新しい洞察が得られるかもしれないと思いつつ、人に勧める機会があったので数年ぶりに読み返してみたことをまとめておく。
「自由からの逃走」は、フロムが自由とは何か、そしてその自由から人々がなぜ逃避しようとするのかを探求した作品である。自由を求めるという行為は、一方で不安や孤独を引き起こす。この不安から逃避することが、「自由からの逃走」とフロムは命名し、それが社会全体の課題となり得ると指摘している。
「自由からの逃走」の前提整理
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、人間の心理と社会性、そして自由という概念について深く探求した重要な著作。フロムはこの著作とナチスをはじめとする独裁政権に置かれた人々の心情を通して、自由がもたらすと同時に引き起こす可能性がある混乱や不安について議論し、その原因と対策について探求している。
フロムは、自由とは何か、そしてそれをどのように理解し、どのように生きるべきかという問いに対して深遠な洞察を提供している。フロムによれば、自由は自己の存在と自己の能力を理解し、それを基にして自己を創造し、自己を超越することであり、その過程は社会全体の発展にも寄与する。
また、フロムは「自由からの逃走」という概念を提唱し、自由を享受することの困難さについて語っている。自由は人間に多くの選択肢を提供する一方で、それは無数の可能性とそれに伴う不確実性をもたらす。フロムは、その不確実性から逃れようとする人間の傾向を「自由からの逃走」と呼び、それが権威主義や破壊的行動へとつながるメカニズムを解明している。
フロムは、「自由からの逃走」を防ぐためには、自己を理解し、自己の能力を開花させ、自己と他者との関係を構築するための技術を習得することが必要であると主張する。そのためには、自己と他者との関係について深く理解し、自己の内面と他者の存在を尊重する心を育むことが重要であると彼は述べている。
自由がもたらす無限の可能性と同時にその不安や孤独、そしてそれらから逃避しようとする人間の心理を明らかにし、自由を真に享受するための道筋を示している。フロムの洞察は、自己と他者、そして社会との関係を理解し、自己の可能性を最大限に引き出すための重要な指針を提供している。
自由がもたらす挑戦とそれをどのように乗り越えるべきかについてのフロムの思考は、現代の我々にとっても非常に重要な観点だと思う。自由が提供する無限の可能性を享受し、それに伴う困難を乗り越えるためには、自己を理解し、自己の能力を開花させることが必要であり、自己と他者との関係を深く理解することが不可欠になる。
一方、「愛するということ」では、愛という感情が本質的には自己を超越し、他者を理解し、他者と共有するものであるとフロムは説明する。愛は自己と他者の間の壁を破壊し、相互理解と絆を生み出す力を持つとフロムは主張している。
「愛するということ」前提整理
フロムの名著「愛するということ」は、愛とは何か、どのように愛を理解し実践すべきかについて独自の視点で述べられた作品。フロムは、単なる感情としての愛だけでなく、人間の生命や社会全体の組織に深く根ざした存在として愛を捉えている。それは、人間の精神と行動を動かし、個人の生活や人間関係、さらには社会全体を形成する強力な力であると彼は考えている。
フロムは愛の多様性について説明し、その5つの形式、すなわち、無私的な愛(アガペ)、友愛(フィリア)、性的な愛(エロス)、自己愛(ナルシス)、全ての人に対する愛(フィラデルフィア)について詳しく述べている。それぞれの愛の形式は独立したものではなく、相互に関連し合っており、一体化したものとして個々人の愛の形成と表現を理解すべきだと彼は指摘している。また、それぞれの愛の形式が他の形式と結びつくことで、より深く、より豊かな愛が生まれると彼は考えている。
またフロムは、「愛するということは、それ自体が一種の技術である」と強調し、人間は愛することを学ぶべきだと主張する。愛する技術を学ぶことは、自己の成長、自己の理解、そして人間関係の質を向上させることに直結し、個々人の生活を豊かにし、社会全体をより良くするとフロムは説明している。
彼の思想は、愛が単なる感情でなく、個々の生命、個々の関係、そして社会全体の健康に深く影響を及ぼすという観点から、非常に重要な意義を持っている。フロムは愛が人間の存在そのものに深く根差し、人間の生活を豊かにし、社会を健全に保つ力であると述べており、そのためには愛の理解と実践が不可欠であると強調している。
彼の思想によれば、愛は自己の成長と発展を促進し、人間関係を強固にし、社会をより良くするための道具であり、それを理解し、技術として習得することが人間にとって非常に重要とされている。それゆえ、「愛するということ」は、愛の可能性とその深遠な意味を理解するための重要な一冊であり、現代人にも当てはまることが多い。
最終的に、フロムの「愛するということ」は、愛の理解とその実践についての理論的かつ実践的なガイドであり、愛が個々人の生活と社会全体にどのように影響を与えるか、そして愛をどのように学び実践すべきかを教えてくれる。人間の愛について深く考え、愛の真実を追求する必要が人生のどこかで生じる人々にとって、一度は考えておくと良い内容だと感じる。
マルクス・ガブリエルの新実存主義は、「存在」を否定することなく、存在と意識の関係性を理論化する。ガブリエルは存在が世界全体を超越した何ものでもない空間であると説き、存在は絶対的なものではなく、相対的で個別的なものであると主張する。
取り留めないまとめ
この観点からフロムの「自由からの逃走」と「愛するということ」を見ると、自由と愛は人間の存在と深く結びついた課題であり、それぞれが人間の存在を定義し、形成する力であると解釈できる。フロムの「自由からの逃走」は、自由が人間の存在に及ぼす影響と、その存在が自由にどのように反応するかを描写している。そして「愛するということ」は、愛がいかにして人間の存在を拡張し、深化させ、人間関係を豊かにするかを明らかにしている。
新実存主義的な視点からすると、フロムの考察は人間の存在を個別の事例として捉え、その具体性と個別性を重視する。自由と愛という二つのテーマは、人間の存在が個別的で相対的であること、そしてそれらが他者との関係性によって影響を受けることを強調している。
人間の存在の特性を深く理解する手がかりとして、フロムのこれらの作品は、人間の存在が個別的で相対的なものであり、自由と愛という二つの要素によって形成されるという点から新実存主義を裏付ける。そして、自由と愛という二つの要素が人間の存在を定義し、影響を及ぼす方法を探求することで、新実存主義の理論を具体的に示すことができるかもしれない。
自由は我々が個々の存在として自己を認識し、その存在の不確定性を受け入れる能力であり、この不確定性は我々の存在の根本的な特性である。しかし、この不確定性が生む孤独と不安は、しばしば我々が自由から逃避する動機となる。
一方で、愛は自由と密接に関わる。愛は他者への理解と尊重、そして他者の存在の不確定性を受け入れる行為である。無条件の愛を通じて、我々は他者との間の存在的な不確定性を共有し、それを受け入れる。愛することは自己と他者の存在の不確定性を認識し受け入れる行為であり、したがって真の自由への道であるとも言えるかもしれない。
この考えは、自由と愛がどのように相互作用し、相互に影響を与えるかを理解するための新たな視点を提供する。自由と愛は、我々の存在の不確定性を受け入れ、その中で他者とつながりを深める手段であり、その結果、真の自由と深い愛を体験することが可能となる可能性が高い。これは、ガブリエルの新実存主義からも提供される重要な洞察であり、我々が自由と愛、そして存在の本質について理解するための有益なフレームワークとなり得ると思う。
自分の思考実験のために演繹的かつ抽象的な文章をつらつらと書いた。小学生の頃ならこれを絵で描くか、小説にするか、というもう少しクリエイティブなものだった気がする。LOVOTと生活をした時と、犬や猫と生活をした時と、自分の家族と生活をする時と、自分の「愛するということ」にどんな違いが出てくるのか、まとめながら、「愛されているか?」という質問が来た時に「Yes」と答えてくれる人を周りに増やせる日が日々日々来るように頑張ろうと思いつつ。
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