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竹安佐和記 

以前から気になっていた竹安佐和記さんを取材する機会に恵まれました。その動機は、いわゆる「あの人は何をやっているのだろうか」というものです。それと、私個人の探求癖とでも言えばいいのでしょうか。竹安さんはゲームを作っているのか、それとも彼の興味はすでにほかの何かに向いているのかということ、気になったら聞いてみようと思います。同時に、一般的なメディアではできないインタビューになるといいなと思って仕上げました。実際の取材は、2024年1月15日に、彼の古巣の大手ゲーム会社が入居する高層ビルが見える新宿雑居オフィスでした。掲載まで時間はかかりましたが濃密な内容になっていると思います。
※有料記事仕立てですが、取材内容はすべて公開しており、0円完読可能です。最後の課金は私のライフワークを支援してもいいという方のみ開けて課金してください。お礼の言葉がまっています。それでは竹安ワールドへようこそ!

あのビルが見える竹安オフィス兼アトリエにて取材を開始

1973年8月30日生まれで、出身地は大阪府枚方市(ひらかたし)です。地元では『ひらパー』と呼ばれている遊園地、枚方パークがあるところの出身です。 

母は言っていました。僕が生まれたときも、行動するときも、何かが必ず起こる…と。例えば、僕は京都で生まれましたが、生まれた病院が再建計画のため取り壊されることが決まっていたそうなんです。まさに僕が生まれた日に工事が始まり、母が寝ていたベッドの隣の壁が解体され始めたそうです。そのため病院からは「早めに退院してくれ」と言われ、母は産後わずかで、生まれたばかりの僕を連れて病院を出ることになりました」 

生まれからしてドラマチック

 さらに変化は続き、僕が生まれたころ、祖父が家を売ることになり、その経緯で枚方市に新しく家を建て、転居してきたということらしいのです。僕は小さかったので何も覚えていないのですよね。確かにすでに色々と起こっている感じですよね。 

記憶があるのは引っ越した後、枚方市の中でも僕の住んでいた場所は、京都府に近い県境付近で、割と裕福な人たちが多い地域でしたが、道路を越えると「タイヤ工場」と呼ばれる、まるで車の墓場のような処理工場があり、外国人労働者が多く働いていました。又樟葉の駅周辺も割と長屋の小さな家が多くて、そんな場所柄もあって、少年時代の友達は多種多様でした。裕福な家庭の子から、そうでない子までいましたが、僕は割と裕福側でしたが、自分と環境の違う小さな育った友達のほうが楽しそうに見えて、なんだかうらやましいなあといつも思っていました。 

育ちの良さを感じることについて

 うちは三人兄弟で、みんな仲がいいのです。親もちゃんとした親だったので、そういった恵まれた環境が黒川さんから見て、そう見えるのかもしれないですね。 

竹安佐和記という名前の由来について 

遥か昔を回想する竹安氏

高校生くらいのとき、佐和記(さわき)という名前の由来を父に聞いたことがありました。「なんでこの名前なの?」と尋ねると、父が一生懸命考えてつけてくれたとのことでした。 
佐和記の「佐」は「人偏に左」と書きますが、それは「常に人の左を歩んでほしい、ただし和を保ち、名前を記す(しるす)ように」という思いが込められているそうです。僕は単純に「人とは違う道を歩め」という意味で解釈していました。父はずっとサラリーマンをしている僕に、いつまで会社勤めしているんだ?と言ってきていたので、結果として父の望み通りの道に行ったとは思っています。

 父は警察官でした。出世して、新聞に載るような事件を多く担当し、警視を務めて最後は警察署長も務めました。特に記憶に残っているのは、1990年代、セクシー系の有名な漫画家の作品が、風営法的に問題視され、有害図書として規制された時、大阪・梅田のまんだらけの職員たちが抗議活動を行い、警察との衝突が起きることもありました。父はその現場での対応に最前線であたっており、漫画やオタク文化を巡る社会的な緊張が高まっていたのを、子供ながらすごいことしてるんだなと感じていました。

 父は大阪の鶴見緑地で開催された花博(1990年4月1日 – 1990年9月30日)の警備責任者も務めていました。華々しいキャリアを持った父でしたが家ではいつも、警察組織での苦労話が多かったように思います。

 正義を守るだけでは出世できない…出世は昇進試験で決まる

父がよく言っていたのは、「自分は叩き上げて、そこそこの地位には上り詰めたけど、上級職(キャリア組)には敵わんよ」ということでした。警察組織という仕組みに疲れていたようです。僕が覚えているのは、父が「正義を守るだけでは出世できない…出世は昇進試験で決まる」とぼやいていたことです。父は正義感が強いので、そんな社会の矛盾に愚痴をこぼすこともありましたね。それでも最終的には警察署長まで勤め上げたので、立派だったと思います。

父親の選択とは逆方向に進んだ要因

そんな尊敬できる父でしたが、僕たち兄弟は誰も警察官になりたいとは思いませんでした。(笑)たぶん、兄妹全員がどこかで「父のようにはなりたくない」という意識があったんじゃないかと思います。

とにかく、父は怖かったですね。説教される時は、相手は警察官ですからもう普通に尋問です。僕にとっての父の説教は、泣いてからが本番(笑)みたいなもので、泣いたら本当のことを言うだろうと……そこから詰め寄られるような感じでした。もちろん、僕も悪かったのですが、とにかく父はこの世で一番怖い存在で、僕の人格形成には強烈な影響を与えていると思います。母親からも「お父さんがいなかったら、あんたはただの犯罪者よ」なんて冗談混じりに言われることもありました。(笑) 

垣間見えるスピリチュアル感覚

母親は非常に勉強熱心な人で、子育てが終わってからは、スピリチュアルな分野に強い関心を持ち、結構真面目に勉強して運命鑑定士の資格取って仕事していましたね。ほんと熱心に四柱推命や様々な占いの勉強を重ね、その知識を活かして多くの人々を救ったと思います。ちなみに四柱推命の観点から言うと、父は僕のとがったところを丸めて、世の中になじむように育てようとしたようです。お陰で人とは変わった人生をそこそこ“安全”に歩めていることには感謝しています。

ビデオゲームとの出会い

 今回、黒川さんの取材を受けるにあたって、記憶をいろいろと遡ってみました。ゲームの記憶といえば、やはり任天堂のファミコンから始まります。ファミコンの黎明期のころと言えば、ドンキーコング、ベースボール、テニスとかが最初だったかな。学校とかでもすごいブームになってましたね。その当時、家の向かいに引っ越してきた人がいて向かいの家ということもあり、そこの家の子と仲良くなったんですよ。 

ある時、その子の家に遊びに行くと、彼のお父さんがゲームをやらせてくれたんですが、ファミコンにむきだしのデッカイ基板がぶっ刺さっていたんです(笑)。子供なんで気にせずにそ遊んでたんですが、同じゲームを買おうとゲームショップに行くと、どこにも売ってないんですよね。当時は理由がわからなかったのですが、後でそのゲームがアイスクライマーだと知り、更にその子のお父さんが任天堂の偉い方だと知りました。ということは僕らが遊んでいたのは、開発中のファミコンの生基板だったんですよね。40年以上前の話で今では考えられないことですが、小学生にしてバグチェッカーだったんですかね(笑)

 その後ゲームセンターには通いを始めました。「スクランブル」や「プーヤン」、「マッピー」などで、続いて「ソンソン」にハマって「イーアルカンフー」、「グラディウス」、「エグゼドエグゼス」と、次々に当時の流行りものを手当たり次第遊んでました。

 気がつけば、カプコンのゲームが特に好きになっていたと思います。おそらく、カプコンのゲームは絵が綺麗だったからでしょうね。「1942」「魔界村」なども遊びました。やがて、ゲーセンに「ストリートファイター」が登場した頃、僕のゲーム熱も落ち着き始めました。実は「ストリートファイター」で遊んでいる最中に、感圧式のボタンを強く叩きすぎて手が内出血をしてしまい、それがきっかけで嫌になり、ゲームセンター通いもやめてしまったのです。「天地を喰らう」(1989年)「キャプテンコマンドー」あたりで段々とゲーセンも行かなくなったように思います。ただ、グラディウスはシリーズずっと追いかけていましたね。あと「アサルト」はなぜかずっと大好きでした。今作ってる11月9日に正式リリースするスターノートというゲームもなんかアサルトっぽいです(笑) 

1987年8月30日より稼働開始

 当時のゲーセンでは、いろいろと怖いこともありましたよ。ヤンキーに「金を出せ」とすごまれたり、自転車のサドルを盗まれたり…。ゲーセンの2階ではずっと麻雀やってました。今考えると、アンダーグラウンドな世界で昼でも暗く湿気のある場所で普通にケンカが日常的に起きていましたね。ある日ゲーセンに行くと、壁に血がベッタリついていたこともありました。

 そもそも、当時通っていたゲーセンの裏手には四方を囲まれた空き地があって、そこではいつも何かしらの傷害事件が起きていました。毎日のように悲鳴が聞こえていたのを覚えています。警察も良く来ましたね。僕もケンカに巻き込まれたことがありましたが、僕自身は不良ではなく、ただのゲームオタクで、単純にゲームを遊びたかっただけなんでほんと巻き込まれたという感じでしたね。

 当時、自販機で缶ジュースではなく瓶のジュースが売られていて、その瓶が凶器になることもありました。後ろから突然殴られたりもしました。僕は殴られた事ないですけどねw。ちょうどその頃、チェリオのスイートキッスというジュースが出て、その瓶で殴られている人も見かけたことがあります。

あれは怖かったな〜。その頃の怖かった景色は今でも思い出しますよ。ただ、恐怖というよりは当時不良漫画が流行っていたので、そのワンシーンをリアルに見たという感じでしたね。「ビーバップハイスクール」「今日から俺は!!」「ろくでなしBLUES」「魁!!男塾」とかかな。 

大阪芸術大学の話

 早速でお恥ずかしいのですが、実は大学に入学するまでに2浪しました。いろいろ受けまくって、親には本当に迷惑をかけたと思っています。僕が行動するときも、何かが必ず起こる…。それが二浪というのはなんとも情けないですよね。まあ、それでも結局全く勉強はしなくて、最終的にデッサンだけ上手くなっていたのでそれで入れるところがいいなと思ったんです。そんな中で、大阪芸大にデッサンのみで入れる工芸学科的スタイルコースというのがあると知り、最後の受験の場所として決めました。大阪芸大はあの有名なアニメ会社ガイナックスの発祥の地であり、そのころの僕は「トップをねらえ!」にすっかり感化されてしまっていたので、大阪芸大は僕にとっては聖地のような場所だったんです。

2年間の浪人生活で勉強を全然せずに色々と人生経験積みました。そこで一番学んだのは、社会には「地位」がいるということ。浪人という立場はどこに行っても低く見られるじゃないですか。でも、いざ合格すると急に評価が変わる。この経験を通じて、社会では能力や実力だけでなく、地位が大事だと痛感しました。そしてデッサンだけ上手くなってた僕は大阪芸大に満点合格で入学しました。

 無事に入学した大阪芸大では、部活を通じて上級生も下級生も仲良くなりやすく、入学後はそんな格差を感じることはありませんでした。たとえば、留年しても影のある感じがあれば仙人のように尊敬され人気が上がるという変な空気があって(笑)、結局、大学では一年留年して浪人も合わせて社会に出るのが3年遅れました。ほんとダメな人生です。

本田雅也さんという長身でモッズヘアがよく似合う人との出会い

 
大学の同級生には、たろりん(木村雅人 旧タンゴゲームスワークス プロデューサー)がいて、彼とは一年生の時、ニューフォーククラブという部活で出会いました。でも、活動といえば飲み会ばかり。最初は僕もたろりんの部屋に入り浸っていましたが、彼は1番の人気者だったので、なんか段々遠く感じて次第に僕はその輪からは距離を置くようになりました。そこからはちょっとイケメンのパンクロッカーな2人の連れとずっと遊んでいましたね。そのうちの1人はるやんは留年したのを気に「俺はイージーライダーになる!」といってオーストラリアに留学して、もう1人はevalaといって音楽業界で結構有名な人になりましたね。昔の友達がかっこよくなってるのは嬉しいですね。ほんとevalaはかっこいいですよ。いつか仕事もしてみたいと思いながら中々業界も違うので接点はないですね。

 そして3年で留年して、一年暇になったので、大阪芸大で謎の部活「ガンダム研究会」に見学に行ってみることに。そこはオタク系ではなく、おしゃれなアニメ好きが集まる場所でした。そこで本田雅也さんという長身でモッズヘアがよく似合う人と出会いました。

彼は僕の憧れの映像学科ということもあり、そこから彼の友人メンバーとつるむようになり、憧れのガイナックスのルーツを感じる映像学科に入り浸るようになったんです。

僕は工芸学科で染色を学んでいたのですが、留年中はずっと映像学科にいた本田雅也さんが制作する「永遠行きのブラスター」というアニメを手伝っていました。本田さんは本当にイケメンオタクで、僕にとってはカリスマのような存在。たろりんにも声をかけて一緒に制作を始め、1年かけて約40分のアニメを完成させ、それが僕の最初の映像制作の経験でした。

本田雅也WIKI

作ったその作品「永遠行きのブラスター」は本田くん達映像学科の卒業制作だったので、完成後は特に何もなくそのまま終りになってしまいました。今思えば作品は作っただけ、それを持ってどっか売り込むとかできなくて、誰もプロデューサーになれなかったんですよね。その作品の参加者はみんな綺麗に就職が出来て終わりました。あの時はなんか寂しかったですね。売る手段を持てない自らの力のなさに悲しくなって、大学の近くにあった川でボケーってしてローラーブレードで駆け抜けていました。

 できれば僕は当時のグループ「虹色サーカス団」という名前だったんですが、それで何かをやっていきたいと思っていたんですよね。それがオリジナルのアニメ1本自腹で作って終わったのは寂しかったですね。

そのあと目的も失ってフラフラしてガリガリに痩せて周りからカマキリ、母からは骨皮筋衛門と言われてヘラヘラしていたら、アパートの隣に住んでいた友達に「竹安はゲーム業界に行った方がいいよ、すごく向いていると思うよ!」って言われたんですよ。そこで初めて「バイオハザード(初代)」をプレイしたんですが、これは凄いなと思ったんですよ。今までもゲームは遊んでいたわけですけど、ゲームで怖いと思ったことはないから、今のゲームってこんな感情を揺さぶれるんだと思ったんですよ。

 まさに映画的でしたよね。

バイオハザード ©カプコン

その後、あまりにお金が無くて友達の紹介で試験薬を飲むという治験バイトを20日ほどやったんですけど、ただ薬飲んで寝るだけの入院する毎日だったんですが、もう、本当漫画のような場所で、胸に24時間心音を測定する装置をつけてる人がゾロゾロいたり、実験用の自動骨折機が置いてあったりして、医療ではなくて実験的な設備が目白押しの場所だったんですが、そんな中で僕は失明していないという検査の眼底写真を撮るのが日課でした。それが足が痙攣するほどの光を操車するので検査後5分間何も見えなくなるんですよね。
あとは週に一回1時間だけ公園の散歩以外は完全に外界との接点がない場所で本当にやることがなくて、そこでの暇を活かしてファイナルファンタジーⅦをやってました、バイオハザートと同じようにこれまた衝撃を受けて、なんかこのゲームの世界って楽しそうだな、良いなーと思うようになったんですよね。周りの人もとにかく暇でずっとソニーのIQをやってほぼ全員IQマックス突破して盛り上がりましたね。 

さて、この先どうしようか……

バイトから戻って、さてこの先どうしようかと悩んでいたところ、たまたま大阪芸大の就職説明会でソニーPCLという会社の会社説明があったんです。暇だったんでその説明会に行って、説明に来た方に自分たちが制作した「永遠行きのブラスター」のアニメを見せたら、「君、すごいことやっているね」と言われ「就職はどうするの?」と聞かれ「全然考えていません」と答えたんですよね。当時の僕はサラリーマンというと、バーコード頭にスーツ姿というイメージしかなかったんです。でも、そのソニーPCLの方はスラッとして、カッコいい雰囲気の人で、その人に出会った事で就職に対する嫌なイメージが一気に消えました。

 それで、漠然と「バイオハザード」を作ったカプコンに就職したいな〜と思い始めましたんですよ。その頃カプコンがうちの大学で就職説明会を開くと噂を聞いたので是非参加しようと思ったんですが、就職科に聞きに行ってみるともう募集が締め切られていてガックリ。でも、ちょうどその頃はインターネットの黎明期で、学校の図書館でネット接続してカプコンのサイトを見たら、まだ一般募集があったんです。それで一般募集に応募したんです。

 その後一次試験、二次試験と順当にクリア、当時1000倍とも言われる競争に勝って最終面接で、他の会社を受けないのですか?って言われたんでよ。そしたら僕バカだったんで逆に食い下がって「ほかの会社って、他にどんな会社があるんですか?」って聞いたんですよ。そしたら「関西だったら任天堂とか・・・KONAMIとかかな?」と普通に教えてくれたので「へーじゃあそっちも調べてみます」って言ったんですよね。アホですよね…。

 でも、あとで調べたら任天堂はすでに募集は終わっていて、KONAMIはまだ募集していたんで、それでKONAMIにも履歴書を出してみようと思って出したんですよ。そしたら、そのタイミングでカプコンから内定の電話があったんです。

 「あんた、カプコンさんから電話よ」byオカン

ちょうどうちの母親が電話を受けて、「あんた、カプコンさんから電話よ」って、で、電話に出て「内定しましたよ!受理されますか、どうしますか?」って言われたんですが、その時僕は「先日の面談で他にもゲーム会社がある事を教わったのでKONAMIも作品を送ったんでどうしようかな〜?」って言ったんです。そしたら担当の方が「えっ来ないですか?」って言われて、「うーん」と言ったら、「じゃあ待ちますね」って言ってくれたんです。それで電話を切ったら、すぐに母親が「あんたどうだったの?」って言うので、いやー、「内定だけど、KONAMIもあるからなあ」と言ったら、めちゃくちゃ怒られて、すぐにカプコンに電話を入れて、「大変失礼しました、内定受理させていただきます!」って言ったんですよね。

 そしたら、後日今度はKONAMIから連絡があって、「二次試験通ったので最終面接来ませんか?」と言われたんですよ。でも「カプコンに行こうと思っていたんですけど…」と言ったらKONAMIさんから「まあ、一回会いましょう」という感じの提案をされて、交通費も出してくれると言うんで、東京に行ったんです。そしたら面接が小島秀夫さんだったんですよ。

 小島さんとの面接で「なんでコナミに入りたいの?」という質問には「いえ、いきません」って言ったんです。そしたら「えっ?はぁ〜」って笑い面白がってくれましてね。「何しに来たの?」って言われた際にも「呼んでくれたので嬉しくて来ました」言ったら「えっ?じゃあどこへ行くの?」って言われたので「カプコンです!」って言ったら「あ〜あそこは良い会社だね、そうか残念、がんばってね!」って言われました。いやほんと今振り返るとゾッとするくらいアホなやりとりですよね。それから10年以上経ってエルシャダイの宣伝で小島ラジオに呼んでもらって、当時の話をさせて頂いた事はいい思い出です。

いろいろと持っている竹安佐和記

就職は夏に決まったので、そのあとは自由に本来大学で専攻していた染色やフォトショップのインストラクターしたり、アパレル関係とかでも色々とバイトしたりして楽しく過ごしていました。そういえば大阪芸大で就職セミナーの登壇者として呼ばれた時に知り合ったデザイン科の子と仲良くなってその子は任天堂に内定決まってて、お互いゲーム会社ということで、ワクワクと夢も膨らまして盛り上がりましたね。卒業まで残り半年くらいはずっとモスバーガーでバイトしててひだっち(前田誠矢、元エルシャダイ総務、ゲーム会社勤務)とそこで知り合いました。彼も留年を重ねていたのでよく遊んでましたね。まさかその後彼とエルシャダイを一緒に作ったりして一緒にゲーム開発するなんて1ミリも想像はしていませんでしたけどね。浪人や留年を重ねて世間から脱落してた僕にとって、大阪芸大でのラストは良い思い出だらけでした。

 当時のカプコンの雰囲気は

カプコンに入社した後は、入社後約1か月間、岡本吉起さんの講義を聞くという新人講習があり、そこがスタートでした。当然、研修なので、岡本さんは講師としてゲームのこととか教えてくれるわけですが、実はウラで、FRIDAYにスキャンダル記事をすっぱ抜かれてたんです。それで全社に謝罪メールが来る一方で、一番クリエイティブの偉い人がこんな感じなんだ…。と振り幅がありすぎて、すごい会社だなあと思いましたね。

岡本吉起 2017年 黒川塾54登壇時

 ちょうど時期的には「バイオハザード2」が出た後で、会社にはベンツとかロールスロイスが1階に並んでいて、バズっていた感じでしたね。すごいなと言う印象でした。机の上は各自が好きなオモチャやフィギュアがあるし、私服だし環境はよかったですよ」 

会社に住んでいた竹安佐和記

 サラリーマンの頃はほとんど会社に住んでいましたね。ほぼ家には帰っていなかったです。カプコンに8年くらい務めたわけですけど、僕は一番勤怠がよかったです。そりゃそうですよね。会社に住んでいましたからね。(笑)

 仮眠室はよく偉い人が寝ていましたから、僕は大体机の下で寝ていました。

でも、仕方なくとかではなくて、実は今でも僕は机の下で寝るのが好きなんですよ。なんでかというと、大学でアニメを創っていた頃のことなんですが、パソコンをたくさん持ち込んで僕の家でみんなで制作作業してたんですが、夜遅くまで作業して、人数も多いしベットも無いのでそのまま雑魚寝。その時いつも聞こえるコンピューターの音が好きだったんですよね。なぜかというと昔はアニメのレンダリングをするのに、一枚1昼夜かかったんですよ、それで変な音がするとレンダリングが止まっているのがわかるので、正常な処理音を聞いていると安心して寝れたんですよね。

カプコン時代も最初はレンダリングをしながら、机の下で寝ていたという感じでしたね。机の下で寝てると、すごい寝入りがいいですね。今でもそうですけど作業してそのまま床で寝るのが好きですね。会社の床はもっと寝心地が良かったですね。PCの処理が止まらない、電気代も払わなくて良いし、エアコンもすごく効いてたしパソコンも最新で最高でしたね。あと会社で休憩時間ずっと機材庫に入り浸ってたんですよ。いっぱい機材があるのが嬉しくて、それで機材担当の人と仲良くなって、いらなくなった廃棄前のパソコンを改造して高速化して先輩にまだ使えますよ!と渡したりしていました」 

バイオハザードのチームに加入できた理由

入社してすぐに研修後「ブレスオブファイアー」の吉川達哉(よしかわ たつや※)さんにも研修をしてもらっていました。

※日本のイラストレーター・キャラクターデザイナー・ゲームクリエイター。奈良県出身。1992年に株式会社カプコン入社。主に「ブレス オブ ファイア」シリーズのキャラクターデザインを手掛ける。彼が手掛けるデザインはゲーム業界内外にもファンが多い。

 それでデザイナーの研修最終日に「好きな絵を描け」という課題が出たんです。周りのみんなは美少女とか、ストⅡのキャラとか二次創作物を描いたんですが、僕は「巨大なウンコ」の絵を描いたんですよ。

それで、配属のときに引き取り手がない・・・みたいなことになっちゃって、そうしたらバイオ2のメンバーの田崎さんが「ウチで引き取ります」と言ってくれて偶然、バイオチームの一員になれたんです。その後と東京でギャラリー業を始めるんですが、そこで吉川さんの個展をやらせて頂けたのはほんと光栄でした。又時々やらせて頂きたいですね。本当に今でも良い先輩です。 

三上真司さんの印象はどうですか?

カプコン時代は、ほんとゲーム業界を変えた神ですよね、三上さん居なかったらゲーム業界ってどうなってたんだろう?って思うくらいゲームチェンジャーだったと思います。

研修後正式に配属された席の向かいが三上真司さんだったんです。ゲーム雑誌は次のバイオ3に向けてインタビューがゲーム雑誌に出まくっていたころで、その本人が目の前に座っているという環境でとにかくビビりました。最初は話すだけで足が震えましたね。 

説教は長ければ長いほど愛されている

「カプコンで当時有名だったのは8時間説教です。説教は長ければ長いほど愛されてるみたいなことを言われていました。だからその間はトイレに行きたいんですとも言えないんですよ。でも、トイレ行きたいっていわなきゃしょうがねーだろう…という何の説教だかよくわからないものなんですけどね。苦笑)

 そんな中で入社してからすぐに三上さんが「海外取材をちゃんとした方がいいんじゃないの?」という提案がある中で、その事について誰も手をあげなかったんですよね。みんな、海外なんて行くのちょっと恐れ多いよねて的な空気になっていたんです。そこで、新人の僕が出張申請を出しました。それで海外ロケに行くことになったんですが、

出張に必要な費用が会社の稟議申請では間に合わず、三上さんが自費でそのお金を出してくれたんです。

その器の広さでカプコンで初めての海外取材の段取りをつけることができました。出張ではイギリスの古城巡りや街並みの写真を撮り、テクスチャー用の素材として持ち帰りました。それまでのテクスチャーは手描きだったのですが、写真を使って加工する事できれいで簡単にすごいクォリティを作れるようになりましたね。

その後、会社にいる間は三上さんから発せられる覇王の覇気みたいなので、僕はずっと恐れ慄いていた雑魚でしたね。

時は流れて……

それから時は流れて、カプコンを退職し、『エルシャダイ』が終わり、イグニッションのスタジオが閉鎖された後、角川ゲームスから『エルシャダイ』のキャラクターを使ったライセンスゲーム『ロストチャイルド』のプロデューサーを発売の約3か月前に急に任されました。本来のプロデューサーだった長谷川さんからの交代でちょっと戸惑ったのですが、とりあえず、そこから初めてプレイしてみたとき、『これって女神転生にちょっと似てない?』となったんですよね。TTPビジネスをベースに、女神転生を手掛けた下請け会社に発注していたので、似てしまうのも仕方がなかったんですが、ただ遊んでみると完成度は高く面白かったんですよね。 

悪魔や堕天使をガンゴールという武器で“捕縛”して仲間にするシステムや、シナリオにムー大陸の伝説やクトゥルフ神話を取り入れ、『エルシャダイ』からつながる神話構想としてしっかり仕上がっている点。デザイン面では特にマルタさんのデザインされたモンスターデザインが素晴らしく、ホラー感は抑えられつつ、でもクトゥルフ感がゲーム全体に漂い、これは長谷川さんと開発会社の努力の賜物だったと思います。 

「The Lost Child」 発売日:2017年8月24日

 その「ロストチャイルド」のプロモーションの件で角川ゲームスから、だれかインタビューとか取れない?とか言われて三上さんにお願いの電話したら、「お〜パクリパクリ〜!」って言われ、今生で話したのそこが最後です。その後やっぱりインタビュー必要だったので改めて挨拶に行ったら「くるな!」と言われて、気を使ってくれた、たろりんと飯食って帰りました。で、その後インタビューどうしようかと思ったんですよ。ゲーム自体のプロモーションは、結果、詳しくはググってみてください(笑)結局プロモーションでは女神転生のイラストレーターで、元アトラスの金子一馬さんと対談協力してもらえた事が、僕の成果ですかね。今でも感謝しています。

 カプコン時代の仕事 

デビルメイクライはモンスターデザインなどをやりましたね。・・・他にも多数あります。鉄騎の頃のメカデザインなどもありますね。完全にデザイナーの仕事です

カプコンに入社したとき、会社の出世や昇給の仕組みに馴染めませんでした。学生時代に自主制作での体験が大きかったですね。だからゲームを出していないのに昇給を求めるたり、同い年なのに上司だからと敬語を使うことに違和感を感じていました。入社直後はほとんどの人にタメ口で話していて、めっちゃ怒られましたね。

この頃から、自分はここにはいつまでも居れないんだろうなと感じ始めました。今もそうですが、人と同じ右側を歩けないのは、もう遺伝子的に入ってるんですかね…。自分でも時々障害なんじゃないかんと思うくらいです。同時期のカプコンでは、偉くなったら会社を辞めて独立する人が結構多かったのも印象的でした。 

カプコンさんって、そういう人が何人もいるじゃないですか、そういう人たちは粛清されてみんななんかこうポンポンって退職するというのは、そういう弊害なんですか。(黒川質問)


 歩兵だった僕の目線でしかありませんが、ゲーム業界は学歴や社歴よりタイトル至上主義、その中でカプコンは同族経営。例え出世できなくてもタイトルが手に入る。じゃあ、みんな辞めますよね。そうすれば席も空いて後輩のためにもなるし良い新陳代謝だと思います。 

カプコンでこれらの仕事を経て、クローバースタジオに参加されたんですよね。

 クローバースタジオは、いい開発会社でしたよ。みんな減給条件でわざわざ新規子会社なんて普通はついていかないですよ。三上さんのカリスマのおかげでしょうね。純粋にいいものを作りたい人がたくさんいた会社でした。その中で神谷さんの「大神」という歴史に残るゲームに参加できたのは幸運でした。神谷さんも本当に良いものを作りたいというチャレンジ精神が、とても強く学びも多かったです。 

ちなみに、妖怪絵師としての基礎はその頃独学で身につけました。最初はクロッキーをして、リアルに線を引くことにこだわっていたんですが、ある時気づいたんです。「リアルにしても魅力がないな〜、昔の絵はどうしてあんなに魅力的なんだろう?」と。「あ〜昔の絵は鉛筆や消しゴムを使っていない。そうか…筆で描いていたんだ!当時は紙も貴重だったんだ!」と気づきました。さらに、「どうしてあんなにお腹が出たデザインが多いのだろう?」と思ったら、浮浪者が多かった当時の様子を模写していたのだとわかりました。体に様々な道具がついているのは、金持ちが捨てていった道具とかだったのですよね。

 こうして、心の中で当時の時代を歩くことで、時代の道理や倫理に気づくことができました。これは私の個人的な結論ですが、当時の妖怪絵巻は、紙を豊富に使える坊主がいつもお経を書く筆で描いていたため、お経の筆走りで線に揺らぎが生まれ、モチーフは街に溢れる浮浪者や捨てられた道具。そんな時代貧困性なども皮肉ったのが妖怪の原点だったのではないかと思ったんですよね。

 その後、妖怪絵師の指南書のようなものを見つけたのですが、そこには「筆で百鬼夜行を模写すること。そして描き上がった先で101匹目を描いた時、妖怪絵師と認定される」と書いてありました。本当かどうかはわかりませんでしたが、私はそれ以来、会社から帰ると毎日百鬼夜行の妖怪を一体模写することを自分に課しました。結果として、百鬼夜行絵巻の妖怪は全て模写し尽くし、最後にオリジナルの妖怪『生生』を描いて、自称妖怪絵師となりました。その技術が『大神』で採用された感じですね。

本当にあのチームはまるでジャイアンツのようで、全員がピッチャーのような凄いメンバーばかりでした。今でもあの場所に自分の席があったことに感謝しています。

 独立のきっかけ 

クローバーがどうなろうと、自分は辞めようと思っていました。まあ単純に自分が居ない方がいいのではと感じたからです。本当に天才だらけの会社でしたからね。 

カプコンやクローバー時代、当時「元第4開発」と呼ばれたメンバーは、本気で生きていたんだなと思います。東京に来て、その熱量を改めて実感しました。飲み会では店を出入り禁止にされるほどの騒ぎになり、パイ投げやコスプレ大会では警察が出動することもありました。三上さんは「無礼講だ」と言って、みんなのストレスを受け止めてくれる優しい上司で、いつもチームの自由を守ってくれましたね。三上さんのインタビュー中にはシャンデリアにぶら下がったりしていました。

参照:三上さんの取材エピソード 黒川noteエンタメ異人伝

 そんな会社だったんで、僕もよく飲み会でつぶれて、たろりんにアパートの玄関まで送ってもらったことがあります。それでたろりんに「ありがとう」って言ったら、たろりんに「ええ加減にせいっ!」ってまじキレされたのを覚えています。まあ、タクシーの窓から吐きながら、「たろりん、天の川や〜」とか言ってましたからね。そらキレて当然でしたね。 

ここまでエルシャダイコンテンツが続いていることについて

 良くここまで生き残ってきたなと思います。カプコンでは成果を出しているつもりでしたが、出世もしないし給与も上がらない。でも、そもそも出世や給与にはあまり興味がなく、昇給査定のときも上司に求めたのは「生きがいとやりがい」だけ。それは実現し給与は据え置きでしたね。 

ある日「大神」のイラストを描いて下絵をスキャンしているときに、自分の人生にはドラマがないことに気づいたんです。芸術家には波乱万丈な人生があるけど、自分はサラリーマンで安全が確保されている。“先の見えない不安と共に生きる”そこに答えがあるのかもと考え始めました。そこでまず外で生きていくためにお金の勉強を始めたんです。その中でサラリーマンの価値は実は実力とか給与ではなく会社の信用を持てることというのを知りました。つまり、上場企業の社員であることが価値であり、借入限度額に繋がるとわかったんです。そこで副業規定に抵触せずに最も効率的に借り入れができるというので……。

 試しにアパート1棟を購入しました。普通は区分の部屋とか家を買うところをアパートにしたんです。当時の銀行の担当者からは「関西でこのプランにたどり着いたのはうちの銀行ではあなたは今年8人目です」と言われかなり驚かれました。当時は不動産投資が、まだダークでアンダーグラウンドな感じで、その雰囲気も面白かったんですよね。

 アパートを買った日に「これからどうするのですか?」と銀行で聞かれ、「サラリーマンを続けます!」と答えた翌日に退職届を出しました。辞めることに迷いはなく、むしろ“つまらない人生が終わる”とホッとしました。破産したらそれも面白そうって感じですね。

 その後、東京へ出てきて、河野一二三さんとか、グラスホッパーの須田剛一さんとかに最初お仕事頂いて、その後どんどんと色んなところから仕事が増えて、独立して初年度でゲーム開発を5件くらいやってました。

 最初は主に、イラストの仕事をしていたんですけど、忙しくなってしまって、新しい依頼はお断りせざるを得ない状況になったんです。それでもオファーが殺到して、金額を上乗せするから、それで描いてくれと言うことになりまして、すこし体調も崩してしまって、このままでは駄目だと思ってた所にめっちゃ税金が来て慌てて株式会社Crimを創業したんですよ。ミルクパン食えたら幸せであまり贅沢には興味がなかったんですが、がっつり税金を持っていかれたのは凹みましたね。税理士に怒られましたよ…。
「経費これだけしかないんですか?」って。まあ、ミルクパンあればよかったので…。 


その後、エルシャダイ開発以降になるんですけど、ギャラリー業を始めたんですよね。ご縁あって色々とたくさん個展をさせて頂いたのですが、そういった活動する中で、作家とファンとの距離がサインをもらう時くらいしかなくてちょっともったいないなと思ったんですよね。ここってもっと新しいフォーマットにしたら、面白い事業体にできるかもしれないと思って主たるコンセプトは“作家と会える”というのをテーマにしてギャラリー業を始めたところ、結果として10年近く続けることができました。そこではゲーム業界時代では出会えなかった新しい人の輪ができました。今度11月からは撮影や、推し活、パーティーなどで使えるレンタルスペースとして2号店もオープンし、さらに多くの人に使ってもらえるようにお店の業態を変える予定です。もちろん個展も今まで通り可能です。新宿に来た際は是非ご利用ください。

ギャラリーイベント

 これから先のこと

 去年(2023年)の末が、母親曰くマヤ暦でいう10年の一区切りで、その10年間やってきたことの節目だったらしいんですよ。マヤ暦は古代マヤ文明が使っていた暦で、時間や宇宙の周期を示すシステムです。特に10年のサイクルは、人生や運命の区切りを示すとされていて、現代ではスピリチュアルなガイドとしても使われているものです。 

まあ、そのタイミングでエルシャダイとかSTARNAUT(スターノート)というソフト開発の発表が昨年末にできたのは偶然なんですけどね。開発って、いつどのようにって決定するのは難しいじゃないですか、でも、昨年末という節目に発表できたのはやはりそういう運命的なことなのかなと思いますよ。

 黒川さんからの取材依頼も、昨年の12月にオファーがあったのもその節目のときにあたるわけで自分のなかの区切りが来ているなと思いました。今年(2024年)は出会いの年だと思っています。人と出会ったりすることはプラスになるはずなんですよ。なぜかというと、去年までやってきたことを基にみんな僕との関係性を測っているわけですからね。

 それでこうやって、取材のオファーをいただいたのも運命に流されていたのかもしれないと思うんですよ。 

2023年10月くらいに、ふと、竹安さんに話を聞いてみたいなっていうのが浮かんだんですよ。ちょっと嫌なことが2023年後半にあって、これからどうしようかなと思ってたんですよ。無理して記事を書くのは、今年はやりたくないと思ってたんですよ。

 黒川さんのその取材活動のライフワークのスタンスはちょっと僕合うなって思ったんですけど、経済活動とは逆行してますよね。(笑) 

エルシャダイとの出会いとはどういう経緯でエルシャダイとイグニッションエンターテイメントと関わるったのでしょうか。エルシャダイとの出会いがもたらしたもの

 エルシャダイは、スピリチュアルなカウンセラーからもうすぐ、あなたの運命の作品に出会うよって言われたんです。

そしたら、カウンセラーに言われた日にドンピシャ、その日にイグニッションエンターテイメントの竹下和広さんのという方からオファーが来て、イグニッションエンターテインメントの社長が会いたいっていうことになって、先方の社長さんが、わざわざ日本まで会いに来てくれたんです。

それで実際に会ってみたら、すごく親しくなったんですよ。むこうもスピリチュアルな部分を信じている人で、自分のお抱えの占い師がいたらしいのですが、その占い師に僕のことをみてもらったら「その人に会うといい」って言われたみたいです。その出会いは、お互い占い師が連れてきたみたいな感じですね。

当時のUKの社長 と竹下さんには今でも感謝しています。僕にとっての人生のゲームチャンジャーでした。当時のUKの社長 はゼロからビジネスを立ち上げてきた人で、10代の頃に、日本の中古ゲームを翻訳してむこうで売る仕事をしていたと聞いています。ほんとすごい人でしたね。 

エルシャダイは難産だった。開発予算は100億円は嘘です

 当時のUKの社長 と作ったエルシャダイの発売前後で「イグニッションには日本を含めて海外のアメリカ、イギリスなどを併せると三か所あったんですが、親会社のUTVにディズニーからの買収提案(2012年)があって、そうなると会社査定が入るじゃないですか、その時に仕掛を全部カット=開発途中のものをすべて中止するということになったわけです。

 実は日本スタジオのエルシャダイは他のスタジオの作品群よりもゲームは完成していたんですよね。それで親会社は日本スタジオを閉鎖したいんだけど、ゲームが出来上がってしまっていたので、捨てるわけにはいかなくなってしまったわけです。僕は昔から良く言っているのですが「ゲームは世に出ないと価値がない」と思っていたんで、何としてもリリースしようと思ったんです。ゲームは世の中に出ないとどんなに頑張っても0点ですからね。

 開発の終盤は、作業が終わった人から解雇。それはモチベーションを維持できないですよね。あの当時、最後まで一緒に粘ってくれた開発スタッフ、織田華丞さん、中川裕介さん、西澤成人さん、前田誠也さん、たろりん、堀くん、田崎さん、てっちゃん、いっけ、とまだまだいっぱいいますが、みんな、自分たちのやって来た事を信じてやってくれたんですよ。

 だって、普通開発が終わったらクビになるのに、そんなに頑張れるわけないじゃないですか。でもそこに付き合ってくれたメンバーは、エルシャダイが終わって、みんなイグニションを解雇され終わったあとも、ちゃんと出世していますね。結局そういう人たちはちゃんと生き残りますよね。実はエルシャダイって最後データ全部消せって親会社から通達が来たんですが、エルシャダイプログラムリーダーをしていた中村克也さんがソッとデータを渡してくれてんですよね。それ無かったら今は無いですね。全部みんなの善意と偶然の産物です。

僕が出来たと事はその奇跡を掴む“暇”があったという事ですかね(笑)

 竹下さんと当時のUKの社長 が親会社との間に立って本当にいろいろ頑張ってはくれました。

あとですね、エルシャダイのエンドロールのスタッフ・クレジットって最後めちゃめちゃたくさん増えたんですけど、ずっとそばでエルシャダイの見ていたのはたろりんですよ。 

発売前のプロモーションが話題になった件

 「エルシャダイ」を成功させるためにビデオプロモーションに力を入れました。当時、日本人にとって旧約聖書の世界観はあまり馴染みがなく、コントなどで笑いのネタにされることが多かったため、そのユーモラスな部分を取り入れようと考えました。しかし、本社のオーダーは真面目な世界観を求めていたので、両性具有的な要素なども加え、日本人に受け入れられやすく工夫しました。

 「そんな装備で大丈夫か、大丈夫だ、問題ない」というセリフは、昔から馴染みのある『北斗の拳』の「お前はもう死んでいる」を参考にして生まれたもので、親が認める北斗の拳の名言を探して考えたものです。主人公が鎧を装着して「大丈夫だ、問題ない」と答えたあとにボコボコにされる流れは計算して作ったもので、そこに面白さを込めたかったのです。

 あんなこと、なかなかやらせてもらえないですよ。だって、あのビデオプロモーションってゲームの要素ないですからね。一般的に、ああいうビデオプロモーションに予算が出ないんですよ。ただ当時は、ゲーム作るのは大変だから、まず映像プロモーション(ビデオプロモーション)作れって言われたんです。

 エルシャダイのテーマはイグニションから来たもの?

そうですね。作品は基本的には受託作品でしたから、エルシャダイの開発コンセプトとかテーマは本社からのものでした。だから、主人公のイーノックとかルシュフェル、タイトルも本社側が決めたものなんです。だから僕がクリエイターだ、みたいに言われるけど、普通に下請け仕事なんですよ。 

 ご自身で権利を買い取ったのはなぜですか?

 まずは何より、一緒に開発した仲間たちに報いたいというのが前提としてあります。

みんなで必死に作った時間は尊いものでしたから。

それを誰かが残さないと、それができるのは僕しかいないと思ったのがありますね。あと私的には、この規模のゲームを個人で買えばどうなるだろう?これで又退屈な人生が一つ終われるかな、と思った感じですかね。

 エルシャダイはもはや竹安さんの人生である

 結果論としてそうなっちゃいましたね。クリエイターとしては、キラキラした新しいものをどんどん作った方がいいとは思うんですけどね。そこ決めるのって結局出資者とお客さんなんで、そんなチャンス僕には中々ないですね。あと、ヒット作って大体長い歴史があるの多いですよね。結局新しい作品を作るというよりは作った作品が数を重ねて歴史になる時代だと思うんですよね。そもそもエンタメもう飽和していますから。その先で自分がやってきたことは正しいかどうかは、死んだ後のお楽しみということで。

 4月28日にエルシャダイ・アセンション オブ ザメタトロン HD リマスター任天堂Switch版を発売しました。今はPS5への移植を頑張っています。

ここから購入もできます


あと、2024年11月9日「スターノート」というゲームを発売します。

これはSteamで開発中で今アーリーアクセスもしています。見た目は全然違いますがエルシャダイとつながる神話構想という物語の一つです。

今回の作品に込める思いは?

 今、どのプロジェクトも小人数開発で予算は全て僕のポケットマネーで開発してます。今時のインディーズですね。開発メンバーもどれも基本3人くらいです。

 彼らだったらお金出してもいいし、自分も時間割いてもいいなって思って、僕にとっては一石二鳥ですよね。リスクも追って夢も追えるし、あと若い人にもチャンスもあげれるっていうのがよかったですね。

彼らとの出会いは偶然ですね。

 直前まで大型案件とかの話もありましたが、あんまりうまくいかなくて。結果優先でのやり方が亜流だったんでしょうね。それで僕自身も今後の身の振り方どうしようかなと思ってたころでした。それで始めたスターノートは最初に立ち上げた時、メンバーは7人ぐらいいたんですよ。でも、プロジェクト始めて1ヶ月ぐらいで、7人から3人になっちゃって、やっぱりそんな時って、ベテランから抜けていきますよね。どうしようかなってなったんですけど、僕はそういう局面がすごく好きというか、「ゴーストオブツシマ」ってわかります?

 あのゲーム「誉(ほまれ)」というテーマがあるんですが、蒙古襲来で、対馬が危うくなって、そこの民を守るというゲームなんですけど、主人公の目的は民を守ることであって、正しい事をする事じゃないんですよね。だから闇討ちもするし、後ろからも斬る、名前も明かさずいきなり斬りつけることによって、名誉ではなくてただ民を守るんです。多分僕もそんな結果主義なんで、だからあんまり誉れられるような生き方はしてないとは思いますね。

 今のゲームシーンって結構違和感を感じますか?

今のメインのゲームシーンにいない僕としては大きな出資で新しいタイトルを作れている人たちを単純に羨ましい面もあります。ただ大規模タイトルがドントン潰れてインディーズが売れたりする今の時代、何が正しいかわからないですね。僕なりに今の立ち位置、予算、チームで出せる最適解っていうのが今作っているエルシャダイと繋がる新たな神話構想スターノート、そしてPS5に移植中のエルシャダイなんで、そこで語るしかないと思っています。特に今発売前なんで、そもそも偉そうに言える立場じゃないし、結果出たらなんか言えるかもですね。

近況

了)

より詳しく竹安佐和記を知るために 

 

竹安佐和記プロフィール
1973年8月30日生まれ 51歳

1999年大阪芸術大学 株式会社カプコン入社
 DevilMayCry モンスターデザイン
 鉄騎 2002年 2足歩行ロボットゲーム
2004-2007年 クローバースタジオ設立に参加 初代社長 稲葉敦志さん      2007年 独立 株式会社Crim
2009年 ハイドリウムタマラン たまらん
2010年 6月15-17日 エルシャダイ E3の直前に発表された
2010年 9月16-19日 東京ゲームショウでも話題になった 日本ゲーム大賞フィーチャー部門受賞
ルシフェルのセリフ「そんな装備で大丈夫か」2010年ネット流行語大賞を受賞 イーノック「大丈夫だ 問題ない」
2011年 4月28日発売 エルシャダイEl Shaddai
イグニションエンターテイメント解散に伴い 2013年5月31日付けで権利をCrimに委譲
2017年8月26日 「神話構想」シリーズ第2弾として「ザ・ロストチャイルド」発売

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