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ここらへんの史跡をゆく⑧ ~江戸城

好評(?)「ここらへんの史跡をゆく」シリーズもこれで8回目。今回は "ここらへん" から90里ほど東にある江戸城を取り上げる。

先日用向きがあり江戸へ‥ もとい!東京へ行った。
俄(にわか)且つ新米とは言え、戦国史マニアの端くれとして江戸城(跡)へは行っておかねばなるまい。江戸城は戦国史の最終章と言うべき場所だ。

これまで私は江戸城について「今の皇居でしょ?」あとは「武道館があるとこは江戸城の一部だよね」ぐらいの知識しか持ち合わせていなかった。二重橋前は中学の修学旅行で行ったっきり。5年間東京で暮らした大学時代も彼女と千鳥ヶ淵を歩いた思い出があるぐらい。あぁそれから社会人時代、丸の内にある財閥系の会社での会議に参加した際、会議室の眼下に皇居が見えて何だか気圧されてしまったこともあったなぁ。

そんな浅学非才が書く今日の記事は「付け焼刃極まりない」レベル。行く前にちょっと調べて知り、行ってから初めて知ったことばかりを書く。
既によくご承知の方々にはお勧め致しませんので悪しからず。

下は皇居 (江戸城) の全体像。皇居は大きく4つのブロックに分けられる。

日本武道館のある北の丸公園は、その名の通り江戸城の北の丸に当たり、江戸時代には御三卿 (田安、清水、一橋) の屋敷があった。

現在宮内庁皇居宮殿があり皇族の方々がお住まいになられる西南一帯は、江戸城西の丸だった場所。江戸時代そこには、隠居した将軍やお世継ぎが暮らしていた。

楠木正成の銅像が建ち二重橋を臨む皇居外苑は、江戸時代 西ノ丸下と呼ばれ、幕閣に連なる大名屋敷があった。

残る北東の一帯 現在の "皇居東御苑" に江戸城はあった。かつてそこには本丸、大奥があり、更に奥に天守がそびえていた。東には将軍の別邸である二の丸御殿があった。今回私はそこを訪れた。下の地図の赤四角で囲んだ3つの門から無料で入場することができる。私は大手門から入り天守台にまわり景色を愉しんだ後、平川門から退出した。

しかし江戸城跡に現存する建物は、いくつか残る番所と富士見櫓、富士見多聞ぐらい。広大な敷地、立派な門構え、壮大な石垣や天守台から、往時の威容を思い浮かべるしかない。私はいろいろ想像を巡らせながら、場内を行きつ戻りつ、ゆっくり2時間を過ごした。

※タイトル画像は、東京江戸博物館にあった江戸城の全体像 (改修のため2025年まで休館)。下に添付した絵図からもその規模が窺える。

寛永年間の絵図 おびただしい数の建物

これまで私が「ここらへんの史跡をゆく」シリーズに上げた記事は7編。振り返ると、うち5ヵ所は家康の縁 (ゆかり) の地だった。桶狭間然り、長篠も長久手も同様。愛知県に住む私の "ここらへん" は、必然的に "家康の足あと" をなぞって歩くことになるようだ。

家康が江戸の地に至るまでの出来事を時系列 / 年齢順にまとめる。
のっぴきならない「どうする ⁉」マターが次から次へ押し寄せている。

・1560年 / 17歳=桶狭間の戦い従軍し敗れる。岡崎大樹寺で自死を考える。
・1561年 / 18歳=信長と清洲同盟を結び臣下となる。
・1572年 / 29歳=三方ヶ原の戦いで武田信玄に完敗。浜松に逃げ帰る。
・1575年 / 32歳=長篠の戦いで武田軍(勝頼)に勝利する。
・1579年 / 36歳=信長から嫡子信康と正室築山殿の切腹を命ぜられる。
・1582年 / 39歳=本能寺の変で信長横死。伊賀越えで三河に退避する。
・1584年 / 41歳=小牧長久手の戦いで秀吉と直接対決し勝利する。
・1586年 / 43歳=秀吉と和議を結び臣従する。
・1590年 / 47歳=秀吉の命により東海から関東に移封となり江戸に移る。

元々さほど歴史に詳しくない私は、note のネタ探しと暇つぶしという不純な動機で史跡巡りを始めた。いくつかの史跡を訪ね資料を見るにつけ、私は少しずつ家康に感情移入していった。

私は江戸城本丸跡の芝生の上を歩きながら、そして天守台から周囲を見渡しながら考えた。関東移封の1590年 家康は既に47歳。城は荒れ果てた粗末な建物。際まで日比谷入江が延び、周りは作物も育たない湿地が広がっていた。徳川家の家臣団は、さながら「未開地への入植移民」だった。

家康はどう思っていたのか。江戸を基盤とした "天下制覇" の道筋は見えていたのだろうか。その後の江戸開発は奇跡と言ってもいいほど目覚ましかった。山を削って海を埋め立て、利根川の流れを変え、武蔵野から飲み水を引いた。貨幣経済を整え、物流の仕組みもつくった。

1603年徳川幕府が開かれる。その直後から諸大名による江戸城の手伝い普請が始まった。壮大な石垣が積まれ、天守閣は1607年に完成した。それは家康64歳の年のこと。それまでの常識を破り、漆喰(しっくい)の白で覆われた天守は平和を象徴していたのだろうか。家康は何を感じたのだろう。

今回の江戸城跡。私は頭の中で、私の大河ドラマ「でかした家康」2時間ダイジェスト版を楽しんだ。

来年の大河ドラマは「どうする家康」。今から楽しみでならない。

10月30日発行 東海先行ビジュアル

< 了 >

本丸跡の芝生広場
本丸跡から丸の内のビジネス街を臨む
天守台
天守台から見た本丸跡 ここに日中6,000人が勤めていたという
天守の裏に位置する北桔橋門 このあたりの石垣が一番高いか?
本丸休憩所の売店で買った雅子妃の御印 "ハマナス" が描かれたボールペン
   売店の女性の上品な話し方に感動して思わず購入 細君にプレゼントした 

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