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作詞少女という僕の心をえぐった小説

このnoteには作詞少女のネタバレが含まれています。ご了承ください。

今でも痛烈に心に残っている小説がある。それは、仰木日向先生原作の「作詞少女」という小説。

作詞をしたいわけでもなかったけど、この小説を読む前に読んだ、「作曲少女」が面白かったので、それに続いて読んでみようとなったのが主な理由。

僕は今まで小説をまともに読んでこなかったのもあって、読むスピードは結構遅い。途中で読むのを断念した小説もある。しかし、先ほど挙げた2作品はどちらも読みやすかった。難しい単語は少なく、堅苦しくない砕けた話し言葉のようで、読書初心者の僕には易しい小説だった。しかし、読み易いからといって中身も柔らかいかと言えば全くもって違った。

大まかなあらすじとしては、主人公の悠が、軽音部に所属している友達に作詞を頼まれるのだがどうも上手く書けない。そんな中で出会った、同年代にして人気作詞家である詩文という女の子に出会い作詞のなんたるかを紐解いていくという話。

作詞に関するメソッド本なのかなと思いつつ読みすすめていたのだが、確かに前半はその通りだった。歌詞を様々なあてこみで歌にグルーブ感を生み出したり、母音だけで歌を作り気持いい発音を見つけるとか、作曲や作詞を全然知らない自分からしても、思わず膝を打ちたくなるような内容だった。しかし、後半に差し掛かった所で物語が一変。それまで作詞のなんたるかを教えてきた詩文が悠に対し、更に踏み込んだ作詞の心得、いや創作の心得を告げたのだが、それがあまりにも刺々しかった。

みんなが優しい気持ちになるような歌詞を書けるようになりたいと言った悠に対し、「テキトー作家」と詩文は吐き捨てたのだ。それは技術的な問題ではない。よりその人の本心に纏わるものであり、聞こえのいい言葉だけを並べ、ある種偽善的なその姿勢こそテキトー作家だと詩文は言ったのだ。

人を救いたいのではなく、かも人を救ってるように見える自分に酔いしれる。善良な自分を保つために不幸な人間を種にし、創作する。自分を犠牲にする覚悟もなく、ほんのちょっとの良心だけで、事を成し得たかのように思う。

こうして並べれば悪徳だと思うかもしれないが、これらの事柄に目を逸らし、自分を過信して生まれたものは、上辺だけの中身のないものになってしまう。悠は今まで気付きたくもなかった自分の本質とボロボロになりながらも向き合い、そして今の自分を受け入れる事で、作家としての一歩を踏み出せたのだ。

この悠が詩文に散々な言われようをしてるシーンは僕自身もかなりやられた。自分の身を挺してまで何かに打ち込んだ事なんてなければ、自分自身を優先的に考えてしまう弱いやつ。詩文のいうテキトーっぷりはまさに僕にも当てはまっていた。「俺だってそんな大層な身分でもなければ、強いやつでもなかったな。。。」と痛感させられた。しかし、更に読み進めていく中で、より印象に残ったシーンがある。

いつか誰かのひと言に腹が立ったら、考えろ。なぜ腹が立ったのか、5回『なぜ』を繰り返して考えろ。苛立ちの裏側に必ずお前のコンプレックス、お前の本性ー”アイツ”は隠れている。

悠と詩文がその後和解し、作詞について話ている中、物語的にも終盤のシーンでの詩文のセリフだ。僕は、今現在自分の生活でこれを取り入れてる。それは街中を歩いていてでもそうだし、仕事場でもそうだ。なんならゲームに没頭している瞬間、Twitterを見てる時でもあるだろう。元々心底腹が立つ事なんて滅多にないが、それでもやはりそういう瞬間に出会ってしまう。そんな中で、他人に愚痴るのか、事を荒立てるのか、そのまま腐るのか。様々な選択があるが、僕は自分に自問自答し、そして自分自身にとっての最適解を見つけ、皮をひと皮ひと皮剥いていきたいと思ってる。

こんな風に文字だけの小説に完膚なきまでに叩きのめされ、最後には救われてしまった、なんとも心を摩耗させた作品だった。でも、この小説に出会えたからこそ見い出せたものもあった。その点ではこの小説と出会った事は不幸な事ではなかく、寧ろ出会って良かったと思いたい。


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