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受け止められているのは距離があったから

悲しさを感じないのは距離があったからなのかなという話。


今日僕のおじいちゃんがなくなった。唐突とはこの事なんだなと思った。

年末年始に実家に帰って、おばあちゃんの仏壇にお参りに行こうとおじいちゃんの家に入ったら、家の中が生活感を感じさせないほどに整理整頓されていた。僕はどういうこと?と質問したかったけど、その答えを聞くのが怖かったから、その場では何も言わず、仏壇に線香を立ててお参りをして事を終えた。

そして昨日、地震の安否を実家に連絡したら、電話越しにお母さんからおじいちゃんが危篤状態だという事を聞いた。年末年始に見た家の中がどうしてああいう状態になったのか自分なりに腑に落ちた。でもその時は明日にも亡くなるんじゃないかとは思いもしなかった。まだ生きているだろうという気持ちになったし、まさかとも思わなかった。

しかし僕は今そこまで落ち込んでいない。確かに悲しい事ではあるのかもしれないが、フラットにこの事実を受け止めれている気がしている。おじいちゃんは90歳を超えていて長生きだったし、ここ数年は実家に帰るたびに、おじいちゃんはもう長くないというのは話にも出ていた。だから心の隅っこで心構えはしていたんだろうし、何より東京と実家が離れているのも1つの要因なのかなとも思っている。

高卒と同時に実家を出て上京してから、両親はもちろん、おじいちゃんと会う機会も減ったし、LINEもメールもしないおじいちゃんとやり取りをする手段は実家に帰って、話をする以外なかった。だからあまり衝撃を受けず、落ち込む事もないんだなと思っている。またまた不謹慎だが、距離を置いている事に少し幸いだなと感じた。


落ち込んでいる状態で良いことが起きないという事は、ここ数年で学んだ事だし、下手に落ち込んでいるつもりもない。

ついさっきのお母さんとの電話でも、僕の安否を心配してくれていたし、僕の方からもお父さんやお母さんが下手に悲しまないでほしいとも伝えた。お互いがお互いを思いやっていたのが電話越しでも感じたし、こうやってありがとうと言い合える関係であるなら、僕は幸せ者だと思った。


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