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学校の存在意義とは

もしかすると、授業をする・知を広め議論を深める…といった活動を行うのに、もはや学校という物理的な場は必須ではない時代が既に成立しているのかもしれない。ガリレオが画面越しに教えている生徒たちは「教え子」であり、実際に face-to-faceで会ったことがなかったとしても、自分の感覚に何の影響が及ぶこともない。

しかし同時に、オンラインスクールで教えている立場であるからこそ、学校であり教室という「場」の持つ学びへの威力というものを感じるのである。

ここのところ様々な催しや興業が休止・延期となり、場合によってはネット配信による代替措置が取られていることもあるが、たとえばライヴの映像を(実際に会場に行った際よりも良いアングルで)観ることができたとしても、どうしてもその「場」に行って得られる感動には敵わないのではないか。だからこそ、有事でなければファンはライヴ会場に行き、スタジアム観戦をし、ミキ広・リド・ザンビ前などで地蔵をするのである。

それと同様に、どれだけ UCLの授業がネットで受けられようとも、1826年から連綿と「この場所」に受け継がれる【学問の空気感】というものが確実にあると思う。言語学であれば Chandler Houseで授業を受けられるか否か、というところには、感覚的ではあるが大きな差が存在するものだろう。

ただ、これもまた時代の進歩へ適応していくための機会と捉えることもできるかもしれない。同じ内容の動画を観るにしても、TEDのページ/アプリで開く場合と YouTubeの中で開く場合では、やはり自分の中で感覚は異なる。オンラインスクールであるガリレオ研究室も、リアルに「ガリレオの研究室を訪れる」という感覚、ともすれば学問に対する畏敬の念までも与えられるよう、進化を続けていきたい。このように考える契機にもなった。

UCLの今年度中の対面レッスン中止→オンライン化のニュースを受けて考えたことを書き連ねたため、まとまりも着地点も特に設定していないが、(まだ実現されていないことも含め)多くのことがインターネット上で可能になる時代に、物理的な場所、またオンラインという場に、我々はどのような価値を求め、何を創りあげていくのだろうか?

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