ラスキ「近代国家における自由」と個人の政治的教養

ハロルド・ラスキは、その著書「近代国家における自由」で権力と個人の関係について以下のように述べている。

『極言すれば、法律は個人がそれを受け入れてはじめてできあがる。こうして、立法政策の要諦は利害関係者たる人々の同意であると言えるであろう。この真実性は末梢事のばあいでも変わりがない。しかも、この真理のもたらす結果は明らかに重要である。私の見るところが正しければ、権力は常に危険を冒して行動する。権力の生命は、命令する力にではなく、納得させる力にある。ところで納得は同意から生ずる。というのも社会的活動の行われる真実の場は、個人の精神にあるという単純な理由からである。精神を、嫌悪する考え方へと無理に強いるなら、権力は必ずどこかで破綻する。ティレルがいったように、人は、「よし全世界を傷心させようとも、自己の生命の主動力に従わざるをえない」のである。これこそ、おそよ権力が忠誠を確保しようとするとき、それを制約する不動の事実である。いずれにしても、忠誠は課するをえず、これはただかちうべきものである。忠誠がこうして説得から生じたものであればあるほど、権力は自らの決定を課することに成功する。』

すなわち、権力とはその支配下にある各個人がそれに向ける忠誠なくして成立し得ない。さらにラスキはこう続ける。

『こうして、個人は、公共的な事柄に関しては、自己の良心の判断に従って行動する権利を有する。(中略)大抵の人にとって、良心は実に貧弱な導き手たることは私も認める。それは偏ることもあり、愚かでもある。良心が有するなけなしの知識は社会的伝統の価値にくらべるべくもない。しかし、偏狭、頑愚、無知であろうとも、それはわれわれの有する唯一の導き手である。』

ラスキの言を要約すれば、良心こそが権力に対して忠誠を向けるべきか否かを判断するただひとつの基準なのである。

彼の言う通りだとすれば、我々は非常に脆く、視野狭窄に陥りやすい自らの良心に従って、政権を選ぶ必要がある。しかし、この良心とは一体どこまで信用して良いのだろうか?

日々の生活に何か大きな問題ー雇用、賃金、年金ーを抱えている場合、我々は耳あたりのいい言葉を口にする政治家を為政者に選ぶ。そして、彼または彼女らが、我々の抱える問題を解決に向け行動し、我々がその良い結果を享受する時には、為政者を支持し続ける。しかし、一旦為政者がその行動を公約通り果たせないとなれば、我々は彼または彼女らをその権力の座から引きずりおろし、新たな為政者を選ぶ。

ここまでは、ラスキの言う通りであるし、日本国民はまさにその通りに行動してきた。7年前までは。

今の為政者が我々の生活に根差す問題を解決に向けて真摯に行動しているとは、とても思えないと考えている国民が半数いる。だとするならば、ラスキが述べた如く、我々の良心が、いまの権力を拒否する動きが活発化するだろう。しかし、我々はこの為政者を選ぶしかない。何故か?代わり手がいないからである。彼らの反対勢力が政治的に子どもで、とても舵取りを任せられない。それをある数年間に身をもって経験してきたからこそ、今の為政者にしか政治を任せられないのである。

為政者はそこをよくわきまえている。だから、この国難の状況にあって、生命を軽視し経済に重きを置いているとしか思われないような態度を取り続けることができたのである。しかし、だからこそここに来て、彼らにこれ以上任せられないという不満が高まってきた。

しかし、今の我々もまた政治的に子どもなのだ。だからこそ7年間も、野党が育つことがなかった。我々はまず、自らの政治的教養を育てるところから始めなければならない。でなければ、為政者の行動にただ不満を言うだけの幼児にしかなり得ない。つまり、良心だけでは適当な為政者を選ぶことができないのだ。しっかりとした政治的教養を身につけ、為政者の行動を常に監視しなければ、権力と個人のバランスの取れた関係は築けないのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?