文献紹介:『ラテンアメリカの新しい風 ――社会運動と左翼思想――』(1995) ラテンアメリカ諸国にとっての「新しい社会運動」とは何か

                               N.Y

Ⅰ はじめに


 近年の日本における社会運動は、世界各国との比較においては規模が非常に限定されているものの、質的な意味においては少なからず変容の兆しが見えてきているといえるだろう。少し例を挙げるとすれば、2018年に気候変動に対抗する「学校ストライキ」を決行したグレタ・トゥーンベリに「象徴」的なFriday For Future(未来のための金曜日)運動は、日本社会に生きる若者にも確かに共鳴しており、今や東京や大阪といった大都市に限らず北海道から鹿児島まで多数の拠点において参加者が拡大している(参照:Friday For Future Japan HP)。また、1960年代ごろからの、男性中心の社会秩序を文化的・社会的領域に関わる要素も含めて批判する第二波フェミニズム(あるいは90年代以降の第三波フェミニズム)は日本型の戦後資本主義システムへの郷愁を基礎とする保守派の攻撃を受けつつ、一定程度の社会的な広まりを呈している。これらの運動は共通して、1960年末に端を発する「新しい社会運動」としての特徴を有しているといえる。歴史社会学者の小熊英二によれば、「新しい社会運動」は以下のようなものである。


(…)1960年代から70年代には、のちに「新しい社会運動」とよばれた動きが台頭します。これが、工業化社会後期の運動となりました。その中心となったのは、画一的な社会にがまんならない若者や女性、芸術家などでした。西欧諸国の場合だと、「68年」の学生運動、女性解放運動、エコロジー運動などがその例とされています。人種的・性的なマイノリティなどの運動もおこりました。ベトナム反戦運動の広がりが、全体の背景になりました。これらのどこが「新しい社会運動」なのかというと、労働者や農民といった「階級」にもとづいた運動ではなかったことです。共産党の指導からもはずれているし、マルクス主義も必ずしも掲げない。倫理主義も強くなく、どちらかといえばお祭りのような要素もある。運動のスタイルも前衛党や労働組合にありがちなピラミッド型ではなく、自由なネットワーク型が好まれました。(…)(小熊、2012)

また、社会運動史を専攻とする社会学者の道場親信は、旧来の「反システム運動」としての社会主義や民族主義では扱いきれなかった、あるいは「反システム運動」それ自体が排除してきた個別課題の解消を目指す一つの枠組みとして「新しい社会運動」論を捉えている。

 (…)こうして運動は「社会主義」「民族主義」という大きなイデオロギーに包括される一枚岩の存在であることをやめ、1つひとつ個別の課題(シングル・イシュー)に取り組むことで問題の解決を目指すものへと転換していった。(…)第二の流れは、ヨーロッパを中心とした「新しい社会運動」論の流れである。フランスのトゥレーヌ(1978=83)は、脱産業社会におけるテクノクラート支配への抵抗として、ドイツのハーバーマス(1982=87)は人びとの「生活世界」が官僚的システムに「植民地化」される事態への抵抗として、この「新しい社会運動」を位置づけた。(…)(道場、2004)

 さて、ここで本稿が扱うラテンアメリカの社会運動に目を移したい。欧米での「新しい社会運動」はそれまでの労働運動や農民運動といった階級を中心とする反システム運動それ自体を、いわば内破する形で繰り広げられてきた。では、ラテンアメリカの社会運動における(90年代時点での)新しい傾向というのはどのような様相を呈しているのだろうか。それは欧米における「新しい社会運動」を単に模倣しただけのものなのだろうか。あるいはまったく異なっているのだろうか。本稿が取り上げる大串和雄『ラテンアメリカの新しい風――社会運動と左翼思想』は、「西洋社会」に出発点をもつ「新しい社会運動」を「非西洋社会」[*1]からの視点から、いかに論じることができるのかという点について、一つの契機を与えてくれる良書といえるだろう。本稿では、取り扱う問題の範囲を限定するために、「第Ⅰ部 ラテンアメリカの社会運動」を議論の中心に据えたい。

[*1]とはいえ、当書において取り上げられているのは、その一部であるラテンアメリカの、さらに部分的なチリ、ブラジル、ペルーの三カ国に限られており、それをもって「非西洋」全体として一般化することは本稿の意図に含まれない。

Ⅱ ラテンアメリカ社会運動の系譜(1970年以降のペルー、チリ、ブラジルにおける事例)

 まず本節では対象文献(大串、1995)における「第1章 ラテンアメリカにおける社会運動の展開」をみる。まずもって第1章から読み取れることは、ペルー、チリ、ブラジルのそれぞれにおいて、軍事政権[*2]による市民の弾圧に反応する形で、民衆の意識化、連帯意識の形成が進められたが(70年代)、レベルの違いはあれど、それぞれの国において80年代には全体として社会運動は停滞傾向に入ったということである。しかし、各国の状況を個別にみるとそれぞれに固有の特徴も見受けられる。
 まずペルーにおいては70年代後半における社会運動は「左翼諸政党の草の根レベルでの活動によるところが大きく、その視点は概して経済主義的(economicista)でかつ民衆の反乱による社会主義政権の実現を間近に期待するもの(大串、1995:9)」であったが、「政府による弾圧と80年代に入っても続いた工業の停滞は労働運動を弱体化させ、(…)バリオ[*3] のなかでも生存戦略のための自助組織が力を増した(同上:10)」。
 次にチリにおける社会運動についてふれる。チリではピノチェトによるクーデター(golpe de Estado)により政権を奪われたアジェンデ政権期に民衆運動の下火が用意され、クーデター直後には人権擁護運動が開始され、70年代後半には文化・芸術活動を通じて若者たちが連帯意識を取り戻し、労働運動の全国組織が再建されるなど、軍事独裁政権下においても社会運動の広まりが顕著にみられたことが分かる。またここで筆者にとって目を引くのは1983~84年にかけて繰り広げられたという「国民抗議の日」(Jornada de Protesta Nacional)における「国民」(Nacion)概念の援用である。

 政府に反対する国民の各層に共通していたのは、第一に政治的民主主義の要求、第二に国民としての連帯にもとづくアイデンティティを取り戻す願望、第三に窮乏化への抗議と、経済の国際化によって破壊された国民経済を再建する要望であった(同上:11)。
 (…)社会運動の中心的指導者のなかには政党活動に移行してしまう者もおり、政党の側も社会運動にかつてほど関心をもたなくなって、種々の社会運動の全国組織は弱体化した。現在存在する社会運動はむしろ、ローカルな場で個別組織の利益を目指すという性格をもつ(同上:11)。

 このようにチリの社会運動は軍事独裁政権下で国民生活一般を軽視する政府を批判する形で発展した一方で、1983年の政党の認可や90年の民主政府樹立が運動そのものにとっての弱体化の道を用意したことも把握しておくべきであろう。結果的にみればこのような公認の政党の樹立と、それに伴う社会運動の相対的地位の低下が、「新しい」社会運動への転換に至る契機となったともいえるのではないだろうか。
 最後に、ブラジルにおける社会運動ついての大串の記述からは、前述の二カ国同様に、ブラジルにおいても軍事政権が経験されているにもかかわらず、70年代後半以降において、80年代以降も活発さを持続させ、また質的にも多彩さを見せるような複数の運動が繰り広げられていたことが読み取れる。また、ブラジルの社会運動にとって際立って重大なキリスト教基礎共同体(CEB)による草の根レベルでの意識化活動(本稿第Ⅲ節にて後述)についても留意しておくべきだろう。いずれにしても、70年代以降のブラジルにおける社会運動は、――上述のチリにおいては政党の認可に対して量的な意味で負の反応を見せた社会運動の行く末とは異なって――政府の開放政策と経済危機のなかでむしろ活性化された側面があるといえる[*4]。

 この時期(1978年以降=筆者)にとくに注目されるのは、既成の労働運動の枠からはみ出た、自律性と底辺民主主義を強調する新しい志向の労働運動が勃興したことである。(…)1993年10月には第一回民衆運動全国会議が開催され、都市貧民の運動、黒人運動、女性運動、エコロジー運動、障害者の運動、同性愛者の運動等々、さまざまな運動を糾合した民衆運動本部が設立されている(同上:12)。

 また、大串(同上)は第一章の最後の数ページを割いて、ラテンアメリカで各種の社会運動が興隆したことの背景として(1)長期的要因(2)短期的要因(3)外部の行為主体による支援・影響の3点をまとめている。まず(1)長期的要因としては、近代化・都市化・識字率の向上・情報の流通量の拡大、あるいは民衆の権利の意識の拡大、中央集権主義と代表制の空洞化による政治的疎外に対する反動などを挙げている。(2)短期的要因としては、既に各国における社会運動の展開に関して述べたことと重複するが、強権的な軍事政権の存在、経済の悪化による自助組織の発生、軍事政権の「開放」政策の三点が挙げられており、特に一点目の軍事政権の社会運動に与えた影響は、筆者にとっても、おそらく多くの読者にとっても興味深いものであろう。

 多くの国では、強権的な軍事政権の存在(…)が五つの意味で社会運動の活性化を促進した。第一に、政治参加の他の経路を禁止することによって、ほかに活動の場のなくなった政治活動家が、草の根レベルでの組織化・意識化に努力を傾注した。第二に、政治の禁止によって政治が資源や注意・努力を独占しなくなり、それまで非政治的であった運動や争点を政治化した。第三に、民衆の生活上の諸要求に対して交渉の余地を認めない軍事政権の態度は、要求実現の前提として民政移管が必要なことを痛感させ、社会的要求を政治化した。第四に、軍事政権のもので決定過程が集権化したことが、社会的欲求を国家に向かわせることになった。第五に、軍事政権による弾圧は、人権擁護の要求を引き起こした(同上:16)。

 最後に(3)外部の行為主体による支援・影響としては、ラテンアメリカのカトリック教会における国内支配体制に反対する進歩派の比重増大、それまでの前衛路線を反省し、民衆運動の興隆に影響を受けて民衆運動を重視するようになった左翼政党、ラテンアメリカ内外のNGOの存在、欧米の運動の影響を受けたフェミニスト運動やエコロジー運動、政府機関による社会の組織化の推進の5つを挙げている(同上:17より筆者引用抜粋)。

[*2]ペルーのベラスコ政権など(1968~80年)、チリのピノチェト政権(1973~90年)、ブラジルのブランコ、シルヴァ、メディシ、ガイゼル政権など(1964~85年)を指す。

[*3]スペイン語では広く、都市の地区のことを指すが、当書の注(p.17)では都市の主としてマージナルな下層民が住む地区をバリオ(barrio)、その住民をポブラドーレス(pobladores)と呼ぶこととしている。

[*4]ただし、この後の大串の記述からもわかるように、ブラジルにおいても82年ごろからの自由な政党活動の進展に従って社会運動はやや後退している(大串:12)。

Ⅲ ラテンアメリカの「新しい」社会運動 ――欧米の「新しい社会運動」との比較――


 次に本節では「第2章 ラテンアメリカの社会運動の実体」および「第3章 ラテンアメリカの社会運動と新しい政治文化」の2つの章をあつかう。まず2章は、近年のラテンアメリカにおける多様な社会運動を便宜上3つのカテゴリー(:以下、「三範疇」とする)にわけ、それぞれを順を追って丁寧に説明するという構成がとられている。次に第3章においては、まずラテンアメリカの社会運動の特徴について、実際のポブラドーレスによる自助組織の例などを紹介しながら首尾よく整理し、先進資本主義国における「新しい社会運動」との比較に関する記述に紙幅を割いている。特にこの第3章は、ラテンアメリカにおける社会運動の客観的な立ち位置や様相を把握するために重要な点を多く含んでおり、また当書冒頭の注でマニュエル・カステルと並んでラテンアメリカの社会運動研究において強い影響力をもつとして紹介されているアラン・トゥレーヌの発展段階論的な認識の批判が展開されている点も非常に興味深い。

 <第2章 ラテンアメリカの社会運動の実態>
 まずここでは大串(同上)によって2章で取り上げられた「三範疇」について簡単にまとめたい。第一の型は「欧米型の社会運動」、つまりフェミニスト運動、エコロジー運動、平和運動、人権運動、文化運動、そして種々多様なNGOである。これらの運動の特徴として大串は、中心的主体は中産階級、特に知識人層で、運動組織の内部や運動間の様相は同質的であり、1970年代半ば以降本格化した、参加者の比較的少ない運動であるとしていると同時に、人権、環境、女性などの新しいテーマが社会全体にある程度浸透させたものであるとしている(同上:20)。筆者が特に関心をもったのは、当書で挙げられているフェミニスト運動の2つの課題のうち二つ目、すなわちフェミニストたちと下層階級を中心とした女性の運動との関係について、である。

 カトリック教会の強い影響下にある組織化された下層の女性たちは、中絶、避妊、性的快楽の追求などの問題に対しては概して保守的であり、自分たちの階級闘争と「誰とでも寝るための女性解放」との間に一線を画していた(同上:22)。

 ただし、この点については「後進的」なラテンアメリカのカトリック教会に限定的に見られる問題ではなく、日本を含む「先進諸国」[*5] においてもジェンダー解放と階級闘争という二項対立は至るところで見受けられる。筆者としては、この二律背反に見える両者の利益が合致し融和するような方向を目指す運動が展開されることを期待したい。
 やや「寄り道」をしてしまったが、次に「三範疇」のうちの第二の型、すなわちラテンアメリカにおいて伝統的に存在してきた社会運動としての労働運動、農民運動、学生運動について簡単にふれておく。大串の分析(同上:39-44)をみる限り、これらの運動は1970~80年代以降、一貫して(出発点となる時期はそれぞれ異なっているものの)退潮する傾向にあり、それぞれ理由としては軍事政権による弾圧、経済危機、産業構造・雇用形態の変化、大学の大衆化などが挙げられている。しかしそのような中でも、1970年代以降のブラジルにおいては、自律的で戦闘的でしかも底辺民主主義を重視するという新しい形の労働運動が発展したとされる。また農民運動においても、「家畜泥棒の弊害の深刻化、および警察・司法機構の腐敗と無能力という状況に対して、農民の間から自発的に結成された自衛組織である(同上:42)」というペルーの農民巡回団(rondas campesinas)は、家畜泥棒に対する自衛組織という基本的性格を維持しながらも、本来地方自治体や司法機構が担うべき役割を果たしつつあるという。これらの運動については当書が書かれた1995年から現在2021年までの間にどのような変遷があったのか、改めて検証する必要があるだろう。
 最後に「三範疇」のうち第三の型、ラテンアメリカに典型的な社会運動について述べる。それらはすなわち、いずれも下層民を中心とした運動である、キリスト教基礎共同体(CEB:Comunidad Eclesiástica)、ポブラドーレスによる運動、地方自治体レベルでの民衆運動による参加の実験、地域運動、エスニック運動などである。特に最後の先住民(インディオ)や「黒人」によるエスニック運動はラテンアメリカの社会運動を語るうえで欠かせない存在であり、筆者自身の立場としてはここで詳しく扱いたいところではあるが、字数の問題から本稿ではこれ以上は触れないでおく。なによりここで大串(同上)が特に強調している運動として筆者が把握しているのは、キリスト教基礎共同体とポブラドーレスの運動の2つである。
 まず前者については当書においては「民衆、主として貧しい民衆によって構成される在俗者主導型の小集団。ここでは意識化、聖書の学習、礼拝、相互扶助、そして(しばしば)自分たちの権利を守るための政治活動が一つに結び合わされる(同上:27)」という定義をとっている。大串によれば、「CEBはそれ自体は宗教運動であるが、多くの民衆運動の発生源になったことにその政治的意義があ〔り〕、(…)共同体感覚の形成や底辺民主主義の強調など、新しい政治文化の多くは、このCEBに典型的にみいだされる(同上:28)。」この部分の記述からわかるように、当書においてCEBの運動が繰り返し強調されるのは、単にラテンアメリカ(特にブラジル)においてこの運動が「伝統的」に維持されてきたために重要であるというだけでなく、それはラテンアメリカにおける「新しい社会運動」の基礎となりうるという目論見があってのことだろう。
 CEBは、特にブラジル、サンパウロにおいて、次に触れるポブラドーレスによる運動へと派生したとされている。大串によると、「ポブラドーレスは生産関係においては均質的でないが、同じく劣悪な環境に居住し、経済危機に直面する者として、共通の目的をもつ運動を展開してきた。運動の構成員には女性、失業者、若者の占める割合が大きく、組織はインフォーマルなものになりやすいという特徴がみられる(同上:29)。」また大串によればポブラドーレスの運動それ自体はそれほど新しいものではないが、近年になって二つの要因がこの運動の重要性を高めているという。すなわち、第一に、都市人口の増大や経済危機による失業の増加と経済のインフォーマル化、および軍事政権の統制・弾圧による伝統的労働運動の相対的弱体化を背景とする量的な増大、第二に、古くから存在するポブラドーレスの運動にも新しい政治文化の特徴がみられるようになってきたという、質的な変化である。
 当書ではこのポブラドーレスの運動の内容についても分類・整理がなされており、またこれまでにふれてきた「三範疇」についてひと通り論述したあとに、図表を用いた社会運動の分類がなされている。社会運動の多様性に関する傾向に関心のある読者は、この箇所(同上:44-47)を確認されたい。

 <第3章 ラテンアメリカの社会運動と新しい政治文化>
 ここからは本節の二項目目として、大串(同上)における第3章を確認したい。ラテンアメリカにおける新たな社会運動の文化を、欧米中心に議論されている「新しい社会運動」との比較のなかで捉えようとするこの章は、本稿にとって非常に重要な部分である。当書ではまず、「第1節 ラテンアメリカの社会運動の新しい特徴」において1970年代以降に興隆した社会運動における新しい政治文化として(1)共同体志向と底辺民主主義(2)運動の外部との関係――自律性と権利意識(3)女性の役割を挙げている。

 近年のラテンアメリカの社会運動において第一に特徴的なことは、その共同体志向である。そこには、第一次集団を越えた公の場で互いを認め合うことの渇望が現れている。この渇望はナショナルなレベルでの集団的アイデンティティの模索を排除するものではないが、「新しい」社会運動との関連で重要なのは対面集団(face-to-face group)における直接的な結びつきの願望である(同上:49、太字は筆者による)。

 このような共同体志向によって意識づけられた運動の主体は、生産関係においては非同質的でありながら、人間関係の重視や情緒的な結びつき、平等なものとしての共同体的アイデンティティを自主的に確立しており、さらに破壊された既存の伝統的共同体への回帰を目指すものでもないという点に、しばしば排他的になる国民国家に依拠する民族主義や階級還元論による社会主義とは異なったオルターナティブな社会像を目指す運動のひとつとしてとらえられるだろう。また大串はこのような「共同体的価値の尊重は、運動内部における底辺民主主義(democracia de base)の強調につながる(同上:50)。」と論を進める。

運動組織の内部では全員の参加が理想とされ、決定も多数決よりは極力コンセンサスによることが理想とされる[*6]。またいくつかの組織では、役職を輪番制にする慣行がみられる。(…)この慣行は、組織の一般成員から遊離した特権的指導者層をつくらないことを目的としており、成員の平等性を強調する志向と軌を一にしている(同上:50)。

次に(2)運動の外部との関係――自律性と権利意識について少しふれておく。ここで意図されている自律性とは、主として国家・政党に対して、あるいは外部の支援団体(教会やNGOなど)に対して主張されるものである。当書ではこの点に関する記述に続いて、外部の者への不信に関していくつかの要点が示されているが、筆者にとり興味深く感じ取られるのは「民衆運動の新しい志向では具体的で直接に経験されたものにこそ意味があると考えられるので、個々の経験の特殊性を否定する抽象的な「政治」は疑惑の対象になるという指摘がなされている(同上:52)。」というものである。大串は「運動の参加者が主張する自律的性格はかなり割引いて考える必要がある(同上:53)。」としており、客観的実証的にみれば教会、政党、NGOが果たす役割は大きいことも明示している。しかしながら運動の参加者の主張する自律性というものこそがこの社会運動の原動力として機能しているということ自体は見逃すべきではないだろう。
 最後に(3)女性の役割についていえば、近年のラテンアメリカの近年の民衆運動において、「量的にも質的にも女性の存在が顕著である(同上:54)」ことが指摘できるという。大串は「一般の主婦や母親が国家に要求を突きつけたり自助組織に積極的に参加するということは、ラテンアメリカにおいては新しい傾向であり、その意義は大きい(同上:54-55)。」としているが、それらの女性の具体的な要求についてはここではふれられておらず、上述の「三範疇」において記述がなされている中産階級の専門職につくフェミニストたちが指導する欧米型のフェミニズムと下層階級の女性たちとの間にあるともいえる「線引き」についてはあいまいなままとどめられているといえよう。
 以上に続く、第3章1節の最後には、ここまでに述べられてきた新しい政治文化が「三範疇」のそれぞれにおいてそのように現われてきているかがまとめられている。多くの読者にとって容易に想像できるように、この新しい政治文化は欧米型の「第一の型」に最も典型的にみられるとされているが、当書が強調する点としては、ラテンアメリカに典型的でかつ新しい運動である「第三の型」、とりわけキリスト教基礎共同体の影響を受けた運動においても顕著にみられ、さらにラテンアメリカに古くから存在する「第二の型」にも新しい特徴がみられるようになっているということである。
 続く第3章第2節では、チリ・サンティアゴ市のバリオの女性が組織した洗濯所とペルー・リマ市の「民衆食堂」という2つのポブラドーレスの自助組織、さらにブラジルの「新しい労働運動」という事例を挙げており、ラテンアメリカにおける新しい社会運動の実践的な側面を確認する上で興味深い論述がみられるが、本稿では字数の観点から省略し、当書において最も重大な項目ともいえる「第3章第3節 先進資本主義国における「新しい社会運動」との比較」に議論を移したい。
 本節は(1)共通点と相違点(2)「先進国」と「第三世界」の二分図式(3)新しい特徴をもたらした要因、という項目に分かれており、筆者にとってどれも大変興味深く、かつ本稿の趣旨において非常に重要である。しかしながら(2)についてはトゥレーヌ社会学の基礎的な前提を必要とするものであるため、文献案内の体を取る本項では不本意ながら割愛し、(3)についてもこれまでに本稿であつかってきた内容と重複する部分が多いため扱わず、したがってここでは(1)のみを確認することとする。
 「(1)共通点と相違点」においては、(a)運動の主体に関して(b)争点に関して(c)価値にかんして(d)行動様式に関して、という4項目を設定し、それぞれについて、ラテンアメリカの社会運動における新しい傾向と欧米の「新しい社会運動」New Social Movement(以下、NSMと省略)との共通点と相違点が列挙されている。ただし(d)に関しては双方の運動に極めて類似点が多いためか、相違点については特に記述がないため、ここで双方の運動に共通する(d)の特徴を挙げておく。それらの運動においては組織内部の民主主義を最重視し、中央集権や官僚化を避け、意思決定はコンセンサスで行ない、役職ポストはしばしば輪番制とされる。基底組織は小規模で、組織間の関係も水平的であり、国家、政治勢力、知識人からの自律性を保持しようとすることや、いくつかの運動では自覚的な非暴力の追求もなされている(同上:73より引用抜粋)。
 さて、ここからはNSMとラテンアメリカの社会運動の共通点と相違点について項目別に見ていく。まず(a)についてはNSMの主要な担い手は「新しい中産階級」であり、一般に高度の教育を受けており、第三次産業とりわけ政府雇用部門(とくに社会サービス、教育、医療関係)および創造的な職業についている場合が多いという。失業者、学生、中産階級の主婦、定年退職者といった労働市場の外部または周辺にいる人々や部分的に旧中産階級の一部も副次的にこの運動に参加している(同上:72より引用抜粋)。
 運動の種類に関する相違点としてはラテンアメリカではNSMとされる諸運動は相対的に弱いが、欧米の場合とほぼ同じ特徴をもっている一方で、欧米のNSMには含まれないがラテンアメリカではそれに類似した特徴がみられる運動が存在しているという点などがある。また地域運動は中央政府に対して物質的な要求(および分権化の要求)を提出する運動であり、欧米のようにアイデンティティを強調する運動ではない。そしてラテンアメリカで優勢である運動としては貧困と人権侵害(政府による不当逮捕、拷問、暗殺)の日常化という現実を反映したポブラドーレスの運動と人権運動の割合が高い。またラテンアメリカの運動における担い手は下層民(都市の半失業者、貧民地区の家庭の主婦、農民など)が中心である。またカトリック教会関係者やキリスト教基礎共同体の果たす役割が大きいことや、広い利益や他者のための運動よりも特定地区の公共サービス拡充要求など狭い利益のための運動の比重の高さが挙げられている(以上、同上:74より引用抜粋)。
 次に(b)については、NSMは国家による介入や国家に対するコントロールではなく、福祉国家や市場経済からの社会の防衛をめざし、自己決定や自主管理を志向する。そこにおいて争点となるのは経済的な所有や分配ではなく、日常生活の民主化、コミュニケーションなど、文化・社会のレベルに属する(以上、同上:72より引用抜粋)他方、ラテンアメリカの社会運動は、国家からの自立性を志向しながらも、国家の介入を求め、運動の心的敵手は国家(および地方自治体)であるという。また階級支配と経済的対外従属という現実を受けて、ラテンアメリカでは階級問題は確固として残っているとされる。「人々一般」をさす「pueblo(スペイン語)」「povo(ポルトガル語)」という言葉はラテンアメリカの民衆運動においては「貧者」というニュアンスが付与され、欧米のNSMの運動主体とは異なって、多くの運動は左翼を支持している。フェミニスト運動、エコロジー運動、人権運動についてもしばしば自らを左翼とみなす傾向があるという(以上、同上:75より引用抜粋)。また、軍事政権下にあった国の場合、民政移管が各社会運動の共通の争点になり、また経済的困難を特定の経済政策を採用した軍事政権の責任と考え、軍政が終われば搾取も終わるという期待を込めた経済主義的な側面がみられるという指摘もある。NSMとの相違という点からすれば、「欧米のNSMが文化的領域に関心を集中するあまり国家の問題と乖離してしまう危険があるのに対し、ラテンアメリカでは経済的要求に関心を集中するあまり権力の問題が視野に入らない場合がある(同上:76)。」ということである。また「ラテンアメリカの社会関係および集団行動の意味の多次元性により、純粋な、あるいは明確に定義された社会運動というものが存在しない(同上:77)。」という点はシングル・イシューを志向する欧米型のNSMとは一線を画しているといえるだろう。
 次に(c)については、NSMにおいてはアイデンティティの重視、物質的価値や産業主義の価値への批判的態度、差異性の積極的な評価、前提としての近代文化、国家レベルでの「形式的民主主義」の尊重が挙げられている(同上:72-72より引用抜粋)。一方でラテンアメリカの社会運動においてもNSM同様、差異性の積極的な評価がみられるが、それは欧米のように属性的特徴にもとづく差異性ではなく、主に政治的意見の多様性の尊重という文脈で語られている。たしかに、属性的差異性に基づくアイデンティティも積極的に主張されるが、フェミニスト運動、インディオ運動、黒人運動などを除けば、運動の直接的争点ではなく、大部分のエスニック集団の運動が求めるものは、政治・経済の領域に属するものであるという(同上:77より引用抜粋)。
 質的・量的に多くの議論を詰め込みすぎた感は往々にしてあるが、以上が、当書(大串、1995)において非常に丁寧にまとめ上げられた、欧米における「新しい社会運動」との比較を含めたラテンアメリカの社会運動における新しい政治文化に関する論述のまとめである。

[*5]ここで触れたジェンダー問題に関する二項対立の存在は、経済発展のレベルとの関係において必ずしも相関はなく、したがってまた「後進的」「先進諸国」という二項図式もここでは不毛なものであるといえよう。

[*6]大串によれば、運動によっては、運動内部に多様な意見が存在することを肯定的に評価する者が現れてきてはいるものの、この点は必ずしも一般的ではなく、同質的共同体の模索は、コンセンサスの押しつけにつながる危険性も内包しているという(同上:51より引用抜粋)。

Ⅳ まとめ ――ラテンアメリカ社会運動の今後――


 最後に、本節では第Ⅰ部第3章までに整理されたラテンアメリカの1970~90年代までの社会運動について、社会運動研究の見地、当該の運動がはらむ問題点、そして最後にラテンアメリカの社会運動の将来について考察がなされている「第4章 ラテンアメリカの社会運動の研究と評価」を確認する。
まず第4章第1節ではラテンアメリカにおける社会運動研究を担った知識人、またその理論的枠組み、その発展についてまとめられている。そこでは、アメリカにおいて社会心理学的なアプローチの不十分性に対する反動として現われてきた資源動員論というのは、ラテンアメリカにおける社会運動研究においては基本的には適応されてこず、マクロな社会構造レベルの変数に注目するヨーロッパの理論を軸とすることがまずもって論じられている。ただし、スペイン生まれの都市社会学者であり、アラン・トゥレーヌと同様に、ラテンアメリカにおける社会運動研究に大きく寄与したマヌエル・カステルが「初期の構造主義から脱却するのと並行して、1980年代の初めごろからラテンアメリカの社会運動研究もより広い視野をとるようになった(同上:98)」というように大串は評しており、当該地域の社会運動研究はより複雑性を増してきていることがうかがえる。
 続いて「第4章第2節 ラテンアメリカの社会運動の評価と問題点」についても確認しておきたい。まず「(1)ラテンアメリカの社会運動の限界」において指摘されている点としては、第一にその社会変革能力への疑問があるということ、第二に国民全体において参加者が少数派であること、第三に特に政党や国家に対する自律性に関して指摘されている、ラテンアメリカの社会運動の新しい特徴はそれほど一般的でないか、確固として根づいたものではないということ、第四に社会運動の興隆自体が政党による伝統的な「政治」の禁止を原因とする過渡的な現象であると考えられること、が挙げられている(同上:100-104より引用抜粋)。当書で大串は、これらのラテンアメリカの社会運動の限界点を一定引き受けた上で、さらなる実証研究と今後の社会運動の展開次第ではそれらの運動が評価できうるということを7つの予見的考察として提示している(同上:105-112)。詳しくは読者ご自身によって参照されることを勧めたい。
 最後に、当書の第Ⅰ部の最終節でもある「第4章第3節 ラテンアメリカの社会運動の将来」を確認することによって、本稿の締め括りとしたい。大串(同上)は当該研究の今後の重要な研究課題として、「ラテンアメリカ社会がいかなる方向に向かっているかという長期的な変貌の方向性を見極め、その社会変動と社会運動の興隆およびその性質との関連を考察すること(同上:113)」を示している。世界の各地で巻き起こる社会運動の波を、楽観的に、あるいは自身の生きる社会における運動の行き詰まりを「投影」する形で美化することへの禁欲の念が、本書における第一部終盤において込められているということは、おそらく筆者の憶測ではないだろう。出版から30年近くが経過し、また日本から遠く離れ、地政学的にも関連性が小さいと考えられる「ラテンアメリカの新しい社会運動」をあつかった本書ではあるが、筆者の眼には、現代日本の社会運動の在りようを考える上においてさえ、重要な視点を与えてくれるものとして映る。

Ⅴ 参考文献・参考資料
アラン・トゥレーヌ『断層社会 ――第三世界の新しい民衆運動――』新評論、1989
大串和雄『ラテンアメリカの新しい風 ――社会運動と左翼思想――』同文館出版、1995
小熊英二『社会を変えるには』講談社、2012
大畑裕嗣ほか編『社会運動の社会学』有斐閣選書、2004
Friday For Future Japan HP(https://fridaysforfuture.jp/ 2021年11月2日最終閲覧)

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