池上 英子「「ある」と「いる」の間で—―ニューロダイバーシティ時代を生きる」
日本語の「ある」と「いる」の区別は学習上の難所らしい。「机の上にペンが“ある”」だが、「猫」なら「机の上に猫が“いる”」。英語では、be動詞で事足りて「ある」と「いる」の使い分けなどない。日本語教育では、チューリップや建物のような動きのないものを指すなら「ある」、と教えるらしい。その通りだが例外もある。
言語学者の山本雅子さんは、その例外をこんな風に指摘している。
ハローキティのぬいぐるみについて話す場合、「あっ、キティちゃんがいる!」と言う子どもがいる一方、「よしこちゃんの家に行ったらキティちゃんがいっぱいあったよ」と言う子どももいる。キティちゃんがいる! という子は、ぬいぐるみをまるで動き生きているもののように認識しているのに対し、後者の子供は、クールに事態を客観視して「ある」と報告している。同じモノなのに違う表現をするのは、対象の違いではなく話し手の側の「主観的な事態把握態度」の違いだ、と。
対象との共存様式を表す言葉が、実は主体(話者)の対象への事態把握の態度による、というのは、なにか深い。多様化のなかの共存とか共生といっても、ただ知識として多様性の共存を認めるのはまだ腹に落ちていない。相手へあり方へのリスペクトが、自分のなかにストンと落ちた形である場合とは、違う。
―『學鐙』2023年秋号 特集「共に在る、共に生きる」より―
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