人生劇場:ゲスト 勇木史記さん
ー人生劇場ー
10人集まれば、10の生き様がある。
様々な分野の方をゲストに迎え、”人生”について語ってもらいます。
時には質問をしたり、みんなで対話を重ねたり。
そうしてひとつの空間をつくりあげていく、60分のライブイベントです。
こんにちは、こんばんは。人生劇場運営メンバーの、ときです。
2021年3月10日(水)、今夜の人生劇場は勇木史記さん。第二回目となります。
ゆれている、感じたままの言葉も、少しの沈黙も、その場に漂う空気の一部になって、一本の線にそって、きれいに話を進めていくわけでもなく、色んな方向にじわじわと広がる、そんな場になっただろうか。
今回も、のちにじんわりと浮き上がってくるものを、こばおこししていきます。
等間隔できっちりと並んで植えられた木の間を通り抜けるのと、そうでない、木々もまだらな森林の中を歩くのとでは、歩みがちがう。前者はこわさがある。しかし同時に、美しさもある。
不便さはいつしか懐かしさとなることもある。
今ではシャワーは一つのハンドルを、向こう側からこっち側に回すだけでお湯と冷水を使い分けることができる。しかし、おばあちゃんの家のお風呂は、お湯の蛇口と冷水の蛇口をいい具合にひねって、冬は寒さに震えながら温度を調節する、けれどこれもまた一つの懐かしさだなと、感じることがあるのだ。ありがたみだって感じる。
便利さ、わかりやすさは、いつかそのころを思い出すときに、あまり鮮明にはおもいだせない。それは効率、とか時短、とかを求めて生み出されるもので、それもそれでありがたみは感じる。
しかし仮に、全てがデジタル化したとしても寂しいのだ。改善することも必要である。しかし、不便さの中でも、私たちもその横に立って、不便さを遊びのように、ああおもしろいなあと、楽しんで暮らしていけはしないだろうか。
残り続けてほしい、完全には消えてしまってはならないものだ。
シンメトリー、アシンメトリー
安定、不安定
便利さ、不便さ
どちらが良し。になるものでもない。
だが、たとえ不安定なものが存在したとしても、それは潰すものでも抹消するものでもないのかもしれない。見つめていたい、大切なものでもある。
人生劇場の空間についても、濃くみえてくる。
今回、わたしはファシリテーターをつとめさせてもらった。
ファシリテーターというより、案内人、だろうか。
司会者、進行役、仕切り、というと、もと引いた線に毎回とん、と話を戻して、なるべくブレないようにしていく作業のようなイメージがある。それだとプツプツ切れたり、引き出せなかった言葉があるとおもう。置き去りにして、次に進んでしまうことになる。それは寂しい。
案内人のような、みちびいていく、だけれどもずっと先頭に立っているわけではなく、ときには後方に、消えたり出てきたりしながら、またときには別の誰かが先頭で導くことだってあるかもしれない。そうやって移り変わっていくこともできる気がする。
そうかぁ、もしかすると、蚊取り線香のようなものなのかなぁ。
今日は最初にわたしは火をつけて、そのあとは場全体の力でぐるぐると螺旋階段をのぼっていくように、そして煙も立ち昇り。
輪になって、それぞれの言葉やおもいは真ん中にむいていて、どんどん吸収されて、少しずつシュウシュウともくもくと煙になっていくような。
ファシリテーター。もうこれはファシリテーターではない、劇場の案内人。映写技師でしょうか。うーん、いや、ちがうか。
つらなり続けるとおもうのでこの辺で。
◯あとがきみたいな◯
参加いただいた方、noteを読んでいただいた方、
ありがとうございます。
ファシリテーターという言葉を持ってみて、何度も何度も確認して、未知なそれと、わたしはどうあれば、とを考えましたが、既存の枠や型にはまらなくていいものもあるのだと刻み込まれるように実感しました。
スーー、ハ〜
それと、澤さんの黄色が、余分な不安を吸い込んでくれていた気がします。ありがとうございます。
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