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”事件現場のその後” 『女子高生コンクリート詰め殺人事件』 冒頭陳述書を片手に見えたものとは ー後編ー

<※下記を御拝読頂くにあたり、現場に赴いたのは一研究として行ったものであり、単なる怖いモノ見たさの野次馬的な動機ではないことを御了承下さい。> 

 前編では、検察官の冒頭陳述書にドラム缶の遺棄現場として特定された『若洲15号地』の痕跡を探した。<前編>

 後編では、被害者の遺体がドラム缶の中に入れてコンクリート詰めにしてた後に、上記のドラム缶を遺棄した現場の今を記す。


・ついに現場へ向かった。


 私達は、コンビニエンスストアで小休止をした後、徒歩で数分の現場へと向かった。
 現場は、若洲の真ん中を通じている「東京港臨海道路」から、一本入る。幹線道路沿いではないため、時折、大きな音を立ててトラックや路線バスが横切っていくのみで、静寂の時間が流れている。
 歩行者はおらず、工業地ゆえのギャップである。


現場付近の道路。遠くからはトラックの音が聞こえる。


 私達が昨年の3月に赴いた時は、日曜日だったこともあり、交通量は皆無で”人のいない無音の地”と言わんばかりに閑散としていたが、今回は土曜日と稼働している工場も多く、”人がいる街”、人の気配がしていた。


 ※被害者御遺族や現場周辺の企業様の保護の観点から、現場写真は掲載しておりません。現在の現場の様子は、毎日新聞社様の『【あの現場は今】「鬼畜」の所業40日間 女子高生コンクリ詰め事件 加害者はもう40代 生かされない教訓』をご参照下さい。


・区画は変わっていなかった。

―――現場には今も名残があった。

 私が最も重要と考えている『区画』は変わっていなかった。『区画』は、目に見えて過去と現在の比較ができる、必要不可欠なものだ。

 現場は、碁盤上に通じる道路の角地で、1989年当時の航空写真と全く変わっていない。

『若洲15号地』Google マップより

 遺棄現場の空き地には、今はとある会社が建っている。当時の現場写真と現在を見比べると、事件当時に木の杭と鉄線で区切られていた部分に沿って、現在は会社の敷地になっている。
 それゆえ、「区画」には新たに建造物があるだけで、それ以外は道路の幅員や私有地と公道の区切りすらも、事件当時と変わっていない。

 『再開発』と無縁な工業地帯ならではなのだろうか。


網目状のフェンスでない、木の杭の柵は当時の遺棄現場と同じものだ。
事件当時から、この空き地は手つかずのままなのだろうか。
※現場の写真ではありません。


 さらに、当時の現場を映した写真や雑誌を見ると、周辺は茶色い草が生い茂った空き地ばかりであるが、そこに東京都の管理する小さな建物がある。 その建物は、現存していた。いかにも昭和後期から平成初期の建造物と言わんばかりのデザインで、老朽化なのか各所に亀裂が入っていた。約30年という時代の流れを感じる。


―――交差点の向かいには、小さな観音像があった。
 そして、私達はとある物を見つけた。
 現場から道路を挟んだ向かい側の角地に、生い茂った雑草の中に密かに小さな白色の観音像が立っていた。目測で、高さ約40センチ、横約15センチほど。前回は私も友人も全く気づかず、今回も周辺を見渡し発見するまで時間がかかった。
 非常に驚いた。現場周辺は、過去を忘れたか、はたまた忘れようとしているのか、本件を知らなければ何ら変哲もない、そんな普通の道路だからだ。
 
 帰宅後、Googleストリートビューで確認したが、ちらっと観音像の頭が雑草の中から出現しているだけで、相当現場付近を熱心に見渡さなければ見つけ出せないだろう。

 その観音像は、バスケット(カゴ)を持っており、中には鯛が入っていた。調べると『魚籃(ぎょらん)観音』という名のようだ。「魚籃」とは、魚を入れるカゴのことを指し、三十三観音に数えられる観音菩薩の一つ。
 特に「大漁祈願」や「海上安全」のために、海岸沿いに多く設けられている。確かに、現場は東京湾内にあり、目と鼻の先だ。少々考えすぎなのだろうか。(現在も関係者に取材・調査中である。)


―――そして、今も周辺には空き地が目立つ。
 当時の遺棄現場に似ている空き地も多く、開発途上だろうか、都内とは疑ってしまうほどの広い。


いくら駅から遠いとしても、もったいないように感じる。


あくまで、管理はされているようである。


各地にコンテナやトレーラが路上に留置されており、
湾岸・工業地帯故の交通量の少なさを物語っている。


・『だが、”元”少年らは更生できていなかった。』

―――これが「更生」の限界なのだろうか。
 出所・出院後、”元”少年らの多くは、過去を断ち切ろうとしてか、或いは単なる隠居するに過ぎないのか、各地方に転居していった。

 だが、”元”少年らは更生できていなかったのだ。

 準主犯格Bは、本件で懲役5年以上10年以下の不定期刑が言い渡され、1999年8月3日に刑の執行が終了した。
 しかし、刑執行終了後の約4年9ヶ月余りの2004年5月19日午後2時頃、都内の路上において被害男性(当時27歳)に対して、「殺すぞ、俺は人を殺したことがあるんだぞ。」などと脅迫した上、顔面を両手拳で数回殴打し、左太もも付近を数回足蹴りするなどの暴行を加えた。
 さらには、所携の金属バットを振り上げて脅迫しながら、車のトランクに監禁し、埼玉県内のBの母が経営していたスナックに連れ込み、「なめてんじゃねえよ、俺は人を殺したことがあんだぞ、本当に殺すぞ。」と脅迫しながら再度監禁し、被害男性に全治約10日間を要する傷害を負わせた、「逮捕監禁致傷罪」で起訴され、東京地裁は懲役4年を言い渡した。

 さらには、自室を監禁場所として提供したCは、2018年8月19日夕方頃、埼玉県内の路上で被害男性(当時32歳)に対し、所携の警棒で肩部を殴打した上、馬乗りになって折り畳みナイフで頚部を刺した「傷害罪」で起訴され、さいたま地裁は懲役1年6ヶ月・3年間の保護観察付執行猶予を言い渡し、2019年12月7日に確定した。

 ”元”少年らは、本件で少年刑務所を出所した後にも、懲りることなく再犯に及んでいる。
 それだけではなく、共犯とされ少年院や児童相談所へ送致された”元”少年らも再犯しているのだ。

 さらなる被害者を食い止められなかった、この状況を、無念の死を遂げた被害者はどう思うのだろうか。

 


 そして今も、日本のとある裁判所で密かに”元”少年の裁判が審理中である。

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