内申点・評定の歴史:なぜ相対評価が2001年まで学校で使われたのか
通知表に記載される評価「評定」、俗に内申点と言われる数値です(なお後に出ますが厳密には違います)。そのうち、実際に影響力があるのは高校入試で使われる中学校の評定です。
最高5~最低1の5段階で、現在は学習の達成度によって数値が決まります(絶対評価)。しかし、2001年までは生徒の集団内の順位で決まっていました(相対評価)。成績順に上位7%に「5」、次の24%に「4」、次の38%に「3」、次の24%に「2」、残り7%に「1」を割り当てるのが通例でした。この制度は、仮に集団内が全員目標未達成でも「5」が取れてしまう、逆に全員目標達成でも「1」をつける必要がある、生徒数の少ない学校や学校によるレベルの違いを考慮していないという致命的な問題があります。しかし、戦後から2001年まで用いられてきました。
1.相対評価導入の経緯:戦前の恣意的な評価が酷かった
日本の学校制度が始まった当初は絶対評価でした。当時は小学校でも進級・卒業試験があり、通知表は単に試験結果を知らせる紙でした(※1)。1890年代から現在のような評定をつける学校が増え、1900年(明治33)小学校令施行規則で卒業試験が廃止され、「学籍簿」に普段の成績を記録することが定められました。
甲乙丙の3段階が主でしたが、法律で細かい規定はなく、学校によって10点満点・100点満点だったり、善・能・可・未・否だったり、評定の形は定まっていませんでした(※2)。
どう点数をつけるかも基準は曖昧で、教師の匙加減といった感じでした。学校制度自体が試行錯誤していた時代で、どの学年でどんな試験をしてどう評価するといったノウハウもまだまだ集まっていませんから、仕方ない面もあるでしょう。
国が評定の形式を初めて規定したのは1938年、10点法を定めますが、41年に秀優良可に変わります。
そして、戦後1948年、相対評価が導入されます。それ以前評定は先生個人で判断がバラバラだったという状況を改善するためでした(※3)。
学籍簿は翌49年、現在の指導要録に改称します。
2.比率の固定化
評定の5段階はその割合を7%-24%-38%-24%-7%とするのが通例でしたが、学籍簿及び指導要録の法令には割合の具体的な数値は示されていません。当初は小学校も5段階で表記は「+2」~「-2」でしたが、その際の規定は以下の通り、ざっくりした書き方です。
学籍簿の書き方を記した本でも、「各教師の腰だめ的(大雑把)な採点」を避けるために正規分布の比率を標準とすべきと記しているものの、あくまで目安だとしています。
しかし、学校現場では比率7%-24%-38%-24%-7%で運用されました。法令には記されていないものの、実際には行政からの指導があったようです。
実際、文部省の組織である指導要録研究会は61年、指導要録61年改訂についての解説の中で、過去の法令には割合が記してあったかのような記述をしています。
3.1971年撤廃宣言?:使われ続けた比率
こうして比率7%-24%-38%-24%-7%は広まりましたが、60年代後半にマスコミが「あらかじめ5が何人、1が何人と決められているのは不合理」などと取り上げ、相対評価への批判が高まりました(文献⑤p.50)。
世論の影響もあり、1971年の指導要録改訂で、評定を「あらかじめ各段階ごとに一定の比率を定めて、機械的に割り振ることのないよう留意すること」と注意書きがなされました(「小学校児童指導要録および中学校生徒指導要録の改訂について(通知)」文初初第150号、1971年)。
法令上は転換点を迎えたように見えるのですが、実際の運用にはあまり変化がなかったようです。
背景には、高校入試の変化を各都道府県教育委員会が嫌ったという面があります。法令上記録が必要な指導要録と、入試に使われる内申書、成績を示す通知表は厳密には異なります。内申書や通知表には規定がなく、内申書に記す内申点を厳格に運用しても、法令に背くものではない、という言い訳はできます。
結局、相対評価を原則とする以上、何らかの比率を設けないと位置を示せなくなる、現行の比率で運用できているならわざわざ変える必要もない、ということだったようです(※5)。
4.過渡期:評定(相対評価)に反映されない項目(絶対評価)
1980年指導要録改訂から観点別学習状況の評価が行われるようになりました。「知識・理解」 「技能」など項目別にABCの3段階評価をつけるものです(当初は+,空欄,-の3段階でした)。それ以前も各教科ごとに所見という項目はありましたが、優れたものに○、劣ったものに×をつけるという特記事項であり、全員全項目を判定する必要はありませんでした。
現在では、各項目と全体評定を連動させるよう指導する教育委員会もありますが、導入当時は観点別学習評価は絶対評価、評定は相対評価と原理が異なったため、基本的に連動できませんでした。
一応「絶対評価を加味した相対評価」という歪な表現で両者は全く無関係ではないとされましたが、中学校においては基本評定とは別物とされ「観点別学習状況は、生徒評価の薬味のようなものにすぎない」(文献⑨p.110)扱いだったようです。
5.2002年改訂:絶対評価への転換
しかし、2002年の指導要領改訂で、評定は相対評価から絶対評価と原則が変わりました。先述した通り、指導要録と内申書は必ず一致させる必要はありませんが、評価の大転換に伴い多くの教育委員会が直ぐに内申点を絶対評価にしました(対応には差もあり、例えば大阪府は2015年まで10段階相対評価でした)。
各教員の恣意的な運用をなくすため導入された相対評価でしたが、学習指導要領や過去の蓄積で何を学ぶかという基準がある程度できたことで、その役割を終えたと言えるかもしれません。周りの人との比較ではなく、各教科の目標をどの程度達成できたか判断する評価となりました。
現在の評定制度にも、説明可能な評価にするための教員負担が大きいことや、「主体的に学習に取り組む態度」は各教科の学力に入るのかなど、様々な問題点はあります。今回は歴史的な経緯を紹介してきましたが、評価をどうするか考えるには、他にもそもそも何のために評価をするのか、意図しないものも含めて評価がどんな影響を及ぼすのかなど、様々な点を考慮する必要があります。
【注釈】
※1 「通知表」が広まる経緯については山根(1997)に詳しい(文献⑩)。なお、学籍簿・指導要録と異なり「通知表」は現在に至るまで法令上の定義がなく「通信簿」「あゆみ」など様々な呼称が用いられている。
※2 例えば、1892年(明治25)の岩手県「小学校教則」では、善・能・可・未・否の5段階で評定をつけていた(文献⑪)。一方で、1902年(明治35)の北海道庁通牒では甲乙丙丁で評定をつけていた(文献⑫)。
※3 とはいえ、相対評価に無理があるのではという指摘は当時から多かった。しかし、他に客観性ある妥当な評価法がまだ存在しないということで暫定的に用いているということが、以下55年指導要録改訂時の解説に記されている。
※4 1980年以前の学籍簿・指導要録に関する法令は『指導要録の解説 昭和55年改訂』に掲載されている(文献⑧)。
※5 村越(1986)は相対評価が長く続いた要因を、(1)評価を軽視する教員が多い、(2)管理のしやすさ・便利さ、(3)できる子とできない子という子どもに対する固定的な見方を挙げている(文献⑭ p.98)。しかし、相対評価によって教師の指導の差で生まれる生徒の学力差を覆い隠していること(同 p.94)などを指摘している。
【参考文献】
①林部一二『新しい学籍簿の解説とその記入法』実業教科書 1949年
②松本和寿「小見山栄一の『教育評価』論と5段階相対評価:戦後教育改革期の『教育評価』」『教育方法学研究』45、pp.85-95、2020年
③古川治「戦後教育評価論のあゆみ (1):相対評価の導入・定着からの矛盾の止場へ」『甲南大学教職教育センター年報・研究報告書2015』pp.1-13、2016年
④指導要録研究会編『改訂指導要録の解説』明治図書出版、1961年
⑤小坂明「指導要録の変遷と学習評価の在り方について:観点別学習状況の評価から見えてくる現状と課題」『神戸親和女子大学児童教育学研究』40、pp.45-62、2021年
⑥村越邦男『相対評価を超えて:到達度評価入門』日本標準、1986年
中島章夫・垂木祐三編著『指導要録の解説 昭和55年改訂』ぎょうせい、1980年
⑦毎日新聞社編『内申書・偏差値の秘密:教育を追う』毎日新聞社、1981年
⑧中島章夫・垂木祐三編著『指導要録の解説 昭和55年改訂』ぎょうせい、1980年
⑨金子真理子「中学校における評価行為の変容と帰結:教育改革の実施過程に関する社会学的研究」『教育社会学研究』72、pp.107-128、2003年
⑩山根俊喜「『通知表』 の起源について:明治前期の日常的成績評価及び行状・品行評価と家庭通信」『鳥取大学教育学部研究報告. 教育科学』39(1)、pp. 167–186、1997年
⑪岩手県教育委員会編『岩手近代教育史 第1巻 明治編』1981年
⑫北海道立教育研究所編『北海道教育史 全道編3』1963年
⑬小見山栄一編『新指導要録の解説と記入法』新光閣、1955年
⑭村越邦男『相対評価を超えて : 到達度評価入門』日本標準、1986年
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