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学校と鉛筆の歴史 ~筆・石盤・鉛筆・ノート~【シャーペンの教育学④】

 前回まで学校でのシャーペンの扱いを見てきました。シャーペンの使用禁止は「学校では鉛筆を使用する」ことを前提としています。学校におけるシャーペン及び筆記具の決まりを考える上では、鉛筆のことも知っておく必要があります。
 学校の筆記具=鉛筆という印象は強いですが、鉛筆も古から学校で使われていたわけではありません。学校と鉛筆の歴史を見ていきます。

1.江戸から明治前半 毛筆から石盤へ

 日本で用いられる主な筆記具は、江戸時代まで毛筆でした。寺子屋では半紙を重ねた「双紙」に書いていましたが、紙は高価なので何回も重ね書きしたり、水で書いたりしていました。また、商人の元での丁稚奉公では「砂手習ひ」という盆や箱に砂を入れたものに文字を書いていました(文献① pp.152-153)。砂ならば何度も消せて費用も掛かりません。しかし、視認性は低く保存も困難です。
 明治時代に近代的な学校制度が整備される際、多くの子どもが一斉に学ぶ形式が導入されます。すると、寺子屋などと異なり学校では、いちいち墨を擦ったり文字の乾燥を待ったり筆を洗ったりする時間もなければ、道具を広げられる場所もあまりありません。毛筆は一斉授業にとって非常に不便でした。また、貧しい家庭を含め子ども全員の就学を目指す上で、貴重な和紙を用意する経済的負担は大きい壁でした。
 そこで、子ども用の筆記具として登場したのが石盤(石板)でした。半紙の大きさの石である石盤に、「石筆」という蝋石を筆にしたもので文字を書きます。つまり、手元にある小さな黒板であり、何度も消して書き直すことができます。
 石盤は日本だけでなく、一斉授業形式を導入した近代学校の発祥である1800年頃のモニトリアル・システムで用いられ、世界の学校で使われました。日本では、初の教育制度である「学制」が出された1872年(明治5年)の「小学教則」にて、以下のように石盤を使った指導が掲載されています。

教師盤上に書してこれを授け前日授けし分は1人の生徒をして他生の見えざるよう盤上に記さしめ他生は各々石板に記し,終わりて盤上と照らし盤上誤謬のあらば他生の内をして正さしむ。

★現代語訳:教師が黒板上に書いて教えて、前日教えた分は1人の生徒を指名して他の生徒が見えない様に黒板上に書いて、他の生徒は石板に書いて、書き終わったら黒板と照らして、黒板に誤りがあれば他の生徒に正させる。

出典:文部省『小学教則』1872年。現代語訳は筆者。

 こうして石盤および代用品は子どもの学習を支えました。しかし、石盤は重い、割れやすい、移動中に文字が擦れて消えやすい、面積に限りがある、文字を唾で消す子どもが多く衛生上の問題が出るなど、様々な問題がありました(文献①p.175)。そこで石盤の機能を有しながら軽量化した代用品が色々と作られ、厚いボール紙に黒砂を塗って白チョークで書く「紙製石盤」や、木盤・瓦盤といったものもありました。

2.明治後半~ 鉛筆とノートの普及


 児童の学習用に紙が使えるようになったのは、和紙より大量生産に向く洋紙が安価に製造できるようになった1900年頃(明治30年代後半)からでした。鉛筆と洋紙の学習帳「ノート」という組み合わせが、価格の低下とともに徐々に広まっていきます。
 なお、ノートの製造・販売は、東京帝国大学(現東京大学)前に合った文具店の「松屋」が1884年に始めたようです。これに由来して、大学生が用いないノートも「大学ノート」という呼称をすることがありました(※)。
 日常生活においても明治末期から大正初期かけて、毛筆からペンや鉛筆への転換が進みました。以下は1922年に書かれた当時の状況で、社会で墨と筆が使われなくなっていることが記されています。

 今日の時勢は毛筆の使用と全然反対の方向に進みつつあるものである。今日のごとき忙しい社会において毛筆を使用することは、仕事の能率を低下することが実に甚だしいので、現に銀行・会社等における事務はすでに毛筆と縁を絶つてゐる。最近日本郵船会社では社内における筆墨硯をすべて廃止してしまつた。
(中略)銀行・会社のごとき社用上の帳簿や文書はみな硬筆によつて居るし、学生の筆記にも毛筆の用ゐられることはほとんどない。

出典:杉山(2018)p.123(原文:『国語教育』7(3)1922年)

 鉛筆と学習帳によって、書きやすく、消すことや保存も容易となり、準備の手間もなくなりました。学習指導に関する本でも1900年頃から「石盤」の記述がなくなり、「学習帳」「草稿帳」といった帳・帖(ノート)に関する記述がみられるようになります(文献②)。ただし、すぐに全て置き換わったわけではなく、経済的な問題もあって石盤が昭和初期まで使われた学校もありました。

 学校の筆記具もずっと変わらないわけではなく、こうした歴史を辿ってきました。鉛筆の普及から100年、文字や絵図を記す手段も様々に変化する中、決まりを何も考えず前例踏襲するのではなく、学習における「書くこと」についてしっかりと考えた上で検討する必要があります。

【参考文献】

①添田晴雄「筆記具の変遷と学習」『近代日本の学校文化誌』pp.148-195、思文閣出版、1992年
②石上佐知子「近代国語教育における 『ノート指導』 変遷に関する通史的考察の試み:明治初年から終戦まで (1868年~1945年)」『学校教育学研究論集』40、pp. 17–31、2019年

※松屋ノートについては、以下に詳しい。
・東京都古書籍商業協同組合「第七回:わが町探訪 第二回「松屋(松屋ノート)」(文京区本郷五丁目二九-一二)」:http://www.kosho.ne.jp/~bunkyo/salon07.php(参照 2022年3月12日)
 また、以下文献は当時の大学生のノート資料を紹介しており、「松屋」についても言及がある。
・東京大学文書館『東京大学 文書館ニュース』56、2016年
・白川栄美「蔵出し!文書館 第11回」東京大学広報室『学内広報』1504、p.9、2017年

◆杉山勇人「近代日本における筆記具の変遷史 ―習字・書写書道教育の基礎研究として―」『公益財団法人日本習字教育財団学術研究助成成果論文集』4、pp.90-131、2018年
◆船倉武夫「数学と道具:教室・黒板・白墨・石盤・石筆」『倉敷芸術科学大学紀要』5: pp.119-130、2000年
◆文部省『小学教則』出雲寺万治郎、1873年
◆山口県文書館「大正時代の学習ノート」『平成27年度資料小展示⑩』2016年
◆唐澤るり子「モノが語る明治教育維新 第21回 ―明治期の花形筆記具・石盤」2018年、三省堂HP:https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/mono21(参照 2022年3月12日)
◆「石板」三重県総合博物館HP:https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/83001046688.htm(参照 2022年3月12日)



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